NHK大河ドラマ『どうする家康』第21話コラム
こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『どうする家康』コラムをお届けします。
筆者紹介
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さて物語はいよいよ長篠の戦いへと進んで参りました。1575年家康35歳の時です。
長篠の戦い前、天下の情勢は織田信長の勢力が躍進していた時期です。将軍・足利義昭は京都から追放され、最大の圧力であった武田信玄も死去。大坂石山に籠る本願寺勢と西国の毛利、そして信玄の後継者・武田勝頼以外はほとんど信長に屈していました。
武田勝頼は、信玄の果たせなかった西上作戦を再開。ついに信濃と三河の国境を越え、長篠城へ迫っていました。
筆者は以前、長篠城や長篠古戦場を訪れたことがあります。
旅行記番外編 長篠の戦いと鳥居強右衛門 - 旅人サイファのお出かけブログ
実際に訪れてみて実感しましたが、この地はまさに要害堅固。二本の川が合流する崖地に作られており、この城を攻めた武田勝頼は、城を囲んで容易に攻め落とすことができませんでした。
当時の長篠城主は奥平信昌。奥平氏は奥三河の国人で、前回の武田信玄の西上作戦時には徳川から武田に寝返った経緯があります。しかし、信玄の死後、今度武田と縁を切り徳川臣下へと鞍替えしていました。
高名な長篠の戦いは、この長篠城攻防戦から派生して起きた合戦です。最近は、長篠の戦いではなく、実際の決戦場である「設楽ヶ原の戦い」と呼称することが多くなっていますね。
長篠城を攻めるため本国甲斐から出兵してきた武田勝頼に対し、織田信長はこれを好機とみて徳川家康と共に主力軍団を率いて赴いたのです。
今回は、鳥居強右衛門の話がしっかり描かれていましたね。鳥居強右衛門は、奥平氏の家臣として長篠城に籠城していましたが、徳川家康に救援を求めるための使者として長篠城を抜け出して岡崎城まで走りました。
使者としては、岡崎城までたどり着いた時点で役目を果たしています。このまま徳川本陣で悠々と体を休めても良いのですが…彼はいち早く長篠城へ戻り、籠城で苦しむ仲間に救援が来る旨を伝えたかったのでしょう。
今回の話でも描かれたように、結局、鳥居強右衛門は武田勢に捕まり磔死します。しかし…彼が届けた情報は重大でした。城主・奥平信昌は、救援が来ていることに勇気百倍!継戦を決意します。
もしも鳥居強右衛門が戻らなかったら…長篠城はもっと早くに落城し、設楽ヶ原の戦いは数週間早まった可能性があります。
実際のに設楽ヶ原で全面戦争が行われたのは天正三(1575)年5月21日。現在の暦で6月29日です。
もしも数週間早く長篠城が開城し、設楽ヶ原の合戦が早まっていたら?
新暦の6月半ばは梅雨の真っ只中。つまり…信長が用意した3000丁の鉄砲戦法は使用できなかった可能性が高いのです。
もしも鳥居強右衛門の戻りが遅ければ…歴史はまた変わっていたかもしれません。まさに「走れ走れ強右衛門!」でしたね。
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