1574年5月。長年睨みあっていた甲斐の武田勝頼と尾張の織田信長&同盟軍徳川家康。
ここ、奥三河の長篠・設楽ヶ原で一大決戦が行われました。
この戦いの前段。
ある一人の勇士が壮絶な討ち死にをしています。
この男の壮絶な死がなければ、戦国の世は大きく変わっていたかもしれません。
その勇士の名は『鳥居強右衛門(とりいすねえもん)』
はるか甲斐から進軍した武田軍は、徳川方の最前線長篠城を囲みます。
必死に防戦する長篠城主奥平貞能。
このまま真正面から迎え撃てば落城は必至。
そこで、一人の家臣を呼びました。
その男こそ、鳥居強右衛門。
彼に与えられた役割は、徳川家康への援軍要請を伝えに行く使者。
夜間、城を抜け出した鳥居強右衛門は、一路徳川家康の岡崎城へ向かい、主君徳川家康へ長篠城の危急存亡と援軍要請を伝えます。
徳川家康は同盟国の織田信長へ更なる援軍要請をするとともに、自らも援軍となるため即座に準備を整えます。
無事役目を終えた強右衛門は、そのまま岡崎で休息を取っても良かったのです。
ですが。
彼はすぐに長篠城へ引き返します。
『あのまま包囲を続けられれば、長篠城はいずれ落城する。その前に徳川殿から援軍が来る旨を伝えになければ!!』
一目散に駆け、長篠城へ戻った強兵衛門でしたが、入城する直前、城を囲む武田勢に捕まってしまいます。
捕らえられた鳥居強右衛門は、逆さに張り付けにされ、城内へこう伝えるよう強要されます。
『援軍は来ぬ。大人しく城を開けよ。』と言え!と。
種々の拷問を受けていた強右衛門はついに屈服。武田軍の言うとおり伝えることを約束してしまいます。
そして明朝。
張り付けにされたままの鳥居強右衛門は、長篠城の城兵に見えやすい崖の上に連れていかれます。
『さあ。援軍は来ぬと叫べ!』
鳥居強右衛門はこくりと頷き、大きく息を吸い込んだ。
『援軍は…っ』
『すぐ!大軍がすぐそこまで来ている!皆のもの!あと少しの辛抱じゃ!!』
その瞬間、張り付けにされた鳥居強兵衛門に何本もの槍が突き立てられます。
勇士はその場で息を引き取りました。
『うおおおおおおぉぉぉぉお!!』
一方で長篠城の士気は一気に上がります。
落城寸前だった城は一気に息を吹き返す。
実際、織田徳川の本軍が到着するまで、城は持ちこたえます。
鳥居強兵衛門のおかげといっても過言はないでしょう。
さて。ここからはif。
鳥居強右衛門の活躍がなければ…
① 長篠城は早期に落城
② 武田軍は全軍を西へ進める
③ 梅雨が明ける前に合戦開始 ←重要★
④ 武田軍の優秀な武将も戦死しない
⑤ 武田の滅亡は数年遅れる
⑥ 武田が滅亡せず1582年に本能寺の変は起こらない
特に③は重要。
信長は長篠城救援の軍はかなり早くから用意していました。
しかし、その行軍はゆっくりゆっくり…。
作家・海音寺潮五郎は著作の中でこの遅行軍を『恐らく梅雨明けのタイミングを測ってたんでしょう』と述べている。
そう。
梅雨の大雨の中の合戦では、大量に用意した鉄砲が使えない!
そのため、長篠城はできるだけ長く持ちこたえ、武田軍を足止めしてくれていなければ困るのです!
鳥居強右衛門という一人の勇士の活躍がなければ!
もしかしたらその後の歴史も変わっていたかもしれない。
と、いうお話です(*^^*)