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【歴史コラム】不死鳥が再び羽ばたく地!奥州棚倉は復活の聖地!

『棚倉』は復活の聖地!

奥州棚倉。全国的にはあまり馴染みのない地名ですが…どこにあるかご存じですか?

 

 

福島棚倉町とは?

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現在の地名で言うと、福島県東白川郡棚倉町福島県の最南部、白河市いわき市のほぼ中間点に位置する小盆地に作られた町です。

 

この地は、古くから稲作が営まれていた痕跡があり、古代ヤマト朝廷も、この地を拠点に奥州開拓を北進させていったとも考えられています。現に、奥州一宮(東北地方で最も格式高い神社)はこの地に鎮座しています。※諸説あり

 

そんな『棚倉』という場所ですが、その知名度はあまり高くありません。一般の方に「棚倉ってどこにあるか知ってる?」と尋ねても、残念ながら「知らない」と答える方の方が多いでしょう。

 

しかしここ「棚倉」という町、一部の戦国時代ファンには有名な土地です。それは、ある名将が復活の一歩を踏み出した土地だからなんです!

 

その名将の名は「立花宗茂」。かつて豊臣秀吉から九州一の勇将とも激賞された人物なんです!

 

立花宗茂とは?

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立花宗茂は、戦国ファンには人気の武将です。彼は元々、九州の名家・大友家の家臣でした。当時の九州は、九州全土の制覇を狙う島津家が薩摩より北進を続けており、その圧迫を受け、大友家は凋落の一途を辿ってた頃の人物です。

 

当時、立花宗茂は、そんな劣勢の主家を守るべく孤軍奮闘!豊臣秀吉による九州征伐の軍団が到着するまで主家を支え続けました。

 

九州征伐の戦後、ひとり奮闘した宗茂を秀吉は絶賛します。

 

立花宗茂こそ鎮西一の勇将よ!」

 

こうして、それまでは大友家に仕える家臣でしかなかった立花宗茂は、筑後柳川に城と領地を与えられ、大名として独立するのです。

 

しかし、そんな立花宗茂の栄華も長くは続きませんでした。

 

豊臣秀吉の死後に起こった「関ヶ原の戦い」で、宗茂は秀吉に受けた恩義に報いるため、西軍に味方します。

 

しかし…ご存じの通り、関ヶ原の戦いでは西軍は惨敗。西軍に味方した諸大名は、首を落とされたり、領地を没収されるなど、過酷な仕打ちが待っていました。

 

西軍に味方した立花宗茂もその例に漏れず…柳川城と領地は没収。大名の地位を剥奪され、浪人にまで身を落とすのです。

 

宗茂の京都での浪人生活は4年にも及びました。その間、付き従ったわずかな家臣たちは、その日その日の身銭を稼ぎ、主君である宗茂の生活を支えたと言います。

 

そんな立花宗茂の立場を耳にしたのが、新たな天下人となった徳川家康でした。

 

家康は、宗茂の才能と経験を高く買っていたようです。1604年、浪人に身をやつしていた宗茂を江戸に呼び出し、将軍直轄の御書院番頭として5000石を与え旗本の列に加えるのです!

 

さらに1606年!さらなる転機が訪れます。宗茂は、二代将軍となった徳川秀忠の御伽衆へと推挙されます。

 

この時…関ヶ原で敵対した武将としては異例の措置が取られました。

 

なんと!立花宗茂にはさらに5000石が加増され、合計1万石の所領を与えられたのです。当時、1万石以上の所領を持つものは大名として所領内の自治が認められていました。

 

関ヶ原の戦い後、柳川城主を追放されてからなんと8年!立花宗茂と立花家はついに大名として復帰を果たすのです!

 

その時に与えられた領地こそが…『奥州棚倉』!

 

一時は浪人として逼迫生活を送っていた立花宗茂は、ここに大名として見事に復活を遂げたのです!まさに異例!

 

さらに1620年には、奥州棚倉から筑後柳川へ国替えが命ぜられます。関ヶ原の戦いから20年。西軍に所属し、追放された武将の中で、旧領復帰を果たした唯一の例でした。もうここまで来ると異例中の異例です!立花家は柳川藩主10.7万石の大名として、明治維新を迎えるまで繁栄しました。

 

しかし…「奥州棚倉」の奇跡はこの立花宗茂の例だけでは終わりませんでした。彼のあと、奥州棚倉に入ったのは…もうひとりの不死鳥「丹羽長重」です。

 

丹羽長重とは?


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丹羽長重は、織田信長重臣丹羽長秀の嫡男として生まれました。当時は信長の最盛期。父・長秀も、安土城の建築責任者や、四国征伐軍の総大将に命ぜられるなど、大活躍を見せているころでした。

 

しかし、本能寺の変で信長が討ち取られると状況は一変します。主家である織田家はその後継者争いの中で瓦解。本能寺の変の直後に明智光秀を討ち取った豊臣秀吉の台頭を許すことになるのです。

 

丹羽家は、そもそも秀吉よりと立場が上。当初は秀吉と協力して織田家を盛り立てていく方針でしたが、徐々に秀吉の独裁が目立つようになります。そして、あれよあれよという間に秀吉は織田家をないがしろにして、自ら天下人となってしまいます。

 

秀吉も、丹羽家にはかなり気を遣っていたのでしょう。元上役の丹羽長秀には、若狭や近江、越前に広大な領地を与え厚遇します。その領地は120万石にも及んだと言われています。

 

しかし…長秀の死後、丹羽家は苦難の道を進むことになりました。

 

長秀の死後、丹羽家を継いだのが「丹羽長重」です。相続時には120万石あった領地を引き継ぎ、懸命に丹羽家を経営していました。

 

しかし…この後は坂道を転がるかのような過酷な運命が待ち構えていました。

 

父の遺領を相続したその年。越中佐々成政征伐の際に、秀吉から丹羽家に不手際があったと難癖を付けられて、突然領地を若狭一国15万石まで領地を減らされしまうのです。120万石から15万石ですから…一気に9割近い削減です。

 

さらにその2年後、九州征伐に従軍した際にも、丹羽家の家臣が狼藉を働いたという罪を責められて…若狭国を没収!国持大名の座も剥奪され、加賀国のうちわずか4万石にまで領地を減らされてしまうのです。わずか2年のうちに、120万石→15万石→4万石という1/30への減封という…過去例を見ないほど過酷な措置でした。

 

しかし…丹羽長重の苦難はまだ続きます。

 

1600年、豊臣秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いで、彼は西軍に味方し、東軍の前田利長と交戦します。当時、北陸地方では加賀金沢の前田家以外は全て西軍。丹羽長重にしてみれば、勢いは西軍にあり!と判断したのでしょう。

 

しかし結果は東軍の勝利。

 

戦後、勝者である徳川家康は、西軍に味方した大名たちへの措置を行います。この時…丹羽長重も、加賀小松城と領地を全て没収されてしまうのです。こうして彼は、浪人へと身を落とすことなるのです。かつて120万石もの大領を誇った丹羽家でしたが…関ヶ原の戦いを経て、彼らの領地はついにゼロになってしまったのです。

 

しかし、丹羽長重もまた、幸運に恵まれました。立花宗茂らと共に二代将軍・秀忠の御伽衆へと抜擢され幕臣として領地を与えられると、さらに1620年、立花宗茂が去った後の『奥州棚倉』に5万石の大名として入るのです!ここでも、丹羽長重の復帰の足掛かりとなったのが、『棚倉』だったのです!

 

丹羽長重は、棚倉藩5万石のあと、奥州の関門である白河10万石へ移されそこで死去しています。そして、長重の後を継いだ子の光重は、二本松へと移封され、明治維新まで二本松藩10万石の大名として存続しています。白河小峰城二本松城も、日本百名城に数えられていることから、丹羽の家系は築城の才があったのかもしれませんね。

 

立花宗茂丹羽長重。共に関ヶ原の戦いで領地を失ってからも、不死鳥のように復活を遂げた武将です。西軍に味方し、領地没収のうえ浪人へと身を落としてから再起し、10万石もの大名へと復帰したのはこの2人だけ!その奇地となったのが…共に『奥州棚倉』の地でした。

 

まさに、不死鳥が再び羽ばたきをはじめる地!『棚倉』は復活の聖地とも言えそうです!