『滋賀院門跡』はかの天海大僧正の建てた天台宗の本拠地!小堀遠州作の名庭園も素晴らしい!
滋賀県大津市坂本。比叡山の門前町として賑わったこの町は、現在も多くの寺院や里坊が立ち並ぶ、宗京都市として息づいています。
こんにちは!本業の傍ら、全国47都道府県を訪問し全国各地の隠れた名所を再発見させる記事を執筆している旅人サイファです。
今回は5月末に訪れた【新緑の京都ひとり旅】から、滋賀県大津市に足を伸ばした際の記事をまとめています。
そんな坂本に建つ数ある寺院の中でも、最も格式の高い寺院がここ『滋賀院門跡』です。何せここは、比叡山延暦寺を有する天台宗の本拠地とも言える場所なんです!
『滋賀院門跡』の、まるで城郭のような高々と積み上がった石垣は、当地の技術者集団「穴太衆」の手によるもの。その上に立つ白壁によってぐるりと囲まれたさまは、まさに要塞のような重厚さを持っています。
滋賀院門跡へのアクセス / 駐車場
『滋賀院門跡』は、大津市坂本の最も奥まったところに位置しています。お車の場合は、湖西道路(西大津バイパス)の滋賀里ランプから10分ほど。門前に無料駐車場もあるので安心です。
公共交通機関ご利用の場合は、JR湖西線の比叡山坂本駅か、京阪電車の坂本比叡山口駅から徒歩もしくは路線バスでよアクセスになります。
滋賀院門跡の歴史
元和元年、天海大僧正が後陽成天皇より京都の法勝寺を賜り移築され、明暦元年、後水之尾上皇より「滋賀院」の号を賜った。
滋賀院門跡のみどころ
『滋賀院門跡』内部は、その造りの見事さもさることながら、かの「天海大僧正」ゆかりの品が豊富で見ごたえあります。こちらは、なんと天海大僧正が着用したという甲冑!
しかも興味深いことに、「僧侶用」の甲冑になっていて、材料も「布と紙のみ」で作られているとか!
こちらは、天海大僧正が実際に使用したと伝わる輿!彼の権勢の強さを感じますよね。
戦国史ファンには有名な天海大僧正ですが…一般の方は知らない方も多いでしょう。そもそも天海大僧正とは何者でしょうか?
天海大僧正とは
戦国時代の末期から江戸初期にかけて中央で活躍した天台宗の名僧。
陸奥国大沼郡高田の出身で、父はこの地の土豪・舟木景光、母は会津領主葦名氏の出自。幼い頃に天台宗の龍興寺で得度したのち、各地を遍歴して修学を重ねました。
のちに、徳川家康・秀忠・家光に仕え、特に徳川三代には政治的・宗教的な支えとなってきた人物です。焼失した比叡山の復興再建や日光東照宮の造営などに尽力しました。
108歳で没したあと、その功績を称えられ朝廷より「慈眼大師」の名を贈られます。
前半生のことを多く語らなかったため、明智光秀が死んでおらず、その身を隠した姿という異説もあります。
天海大僧正の残した事績は多く
これら全て、天海大僧正の手によるものと言われています。
小堀遠州作の庭園が見事!
『滋賀院門跡』には、江戸時代初期の文化人、小堀遠州作と伝わる庭園が残されています。この宸殿の縁側から見る庭園が美しいこと!
山の斜面に沿って植えられた木々、縁側のすぐ下には池泉、そして随所に置かれた足組。決して広くはありませんが、非常に手の込んだ作庭がなされています。
宸殿の西側に三代将軍家光公の命により南北に細長く池泉鑑賞式に作庭されている。
特徴としては、蓬来山形式を用い、左手に亀島を、右手の滝に巨石で鶴石組をなし、正面をほうらいさんとなし、池中央には豪華な切り石で橋を架けて細長い池庭を引き締めている。
南北にある船着石は、硯石の手法をとり、切石橋と共に江戸初期の作風を表している。
このお庭を鑑賞するだけでも一見の価値あり!
観光客で賑わう寺院ではないので、ゆったりとご自身のペースで鑑賞することができるのでおすすめです。
また境内の慈眼堂は、天海大僧正の廟所になっています。徳川将軍に使え、その師のように政治へ助言したと言われる天海大僧正。
彼は当時としては稀な108才という長寿で亡くなり、この地に眠っています。
なお『滋賀院門跡』のある坂本の町は、ほぼ全てが石垣で積まれた、雰囲気抜群の町並みが広がります。
かつて織田信長はじめ、多くの戦国大名に重宝がられた石工集団「穴太衆」。その技術は今もなお、この地で息づいています。
筆者はこの後、坂本の最北端に位置する「西教寺」へ向かいました!続きは次回!
滋賀院門跡
アクセス
西大津バイパス 滋賀里ランプより10分
拝観時間
9:00-16:30
定休日
不定休
拝観料金
大人500円
駐車場
拝観者用無料駐車場あり
アドレス
077-578-0130
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