【古代日本はここまでだった!ヤマトの北限『特別史跡多賀城』散策レポート!】
古代ロマンの聖地!陸奥の国府『多賀城』は、奈良時代に作られたヤマト政権の北への前線基地でした。
多賀城が作られた時代
奈良時代以前、実は東北地方は「日本」ではありませんでした。
え?どういうこと?
というのも…当時の東日本は、ヤマト朝廷による稲作生活の受け入れを拒否した縄文人」いわゆる「蝦夷」が生活する土地だったからです。
ヤマト朝廷が成立したばかりの頃は、畿内(京都奈良周辺)から東へ通じる3本の道に関所を設け、その蝦夷の襲撃に備えていました。
三関
北陸道に愛発の関所
東山道に不破の関所
東海道に鈴鹿の関所元々は、この関所より東側を『関東』と呼称していたんです。そのため、鈴鹿の関所より東側…例えば名古屋や浜松あたりも、厳密にいえば『関東』なんです!
ヤマト朝廷からしてみれば、彼ら蝦夷は、稲作という「万民の腹を満たす夢の作物」を作り出す農耕生活を拒否する野蛮人。
反対に、蝦夷と呼ばれた原住民(縄文人)にしてみれば、稲作をするために壊される森林こそが、命を育む大切な場所でした。育む大切な森で狩猟や採集を行っていた彼らから見れば、ヤマト朝廷は、母なる森を壊す悪魔のような存在に見えていたことでしょう。
彼らは、その価値観の違いから、ことあるごとに対立します。
ヤマト朝廷は水田を拓くために森を壊す。一方の蝦夷は森を守るためにそれを襲撃し阻止しようと抵抗する。彼らが理解しあうことは…非常に難しいことでした。
この、
ヤマト朝廷 VS 蝦夷
の抗争は、稲作と米いう保管保存できる夢の作物を持っていたヤマト朝廷側が圧倒的に有利でした。なにせ養える人数が違います。そしてその人員数に伴う軍事力を背景に、ジリジリとその勢力範囲を東へ広げて行きます。
その結果…ヤマト朝廷軍は、現在の新潟、栃木、茨城まで勢力図を伸ばします。蝦夷の勢力下にあるのは、残るは東北地方だけになってしまうのです。
かつて『関東』とを分けていた関所も、ヤマト軍の進軍と共に東進します。
その結果、奈良時代直前の頃にはヤマト朝廷と蝦夷の勢力圏は、『奥州三関』のラインにまで進軍(蝦夷にしてみれば後退)していました。
奥州三関
これ…まさに、現在の東北地方との境界線ですよね。
『多賀城』が作られたのは、こんな時代。
その後もヤマト軍の進撃は止まらず、奥州三関も易々と越えて、現在の仙台平野も勢力下に置いた頃のことです。そして、仙台平野の北端である、ここ『多賀城』に政治と軍事の一大拠点を設けるのです。
当時は、ここ『多賀城』までがヤマト朝廷の勢力圏。これより北は、蝦夷の支配地でした。つまり「ヤマト=日本」の北限がここ!
ちなみに、ヤマト朝廷の圧迫を受け続けた東北の蝦夷(縄文人)たちは、北海道まで後退します。彼らが、北海道に今も生きる「アイヌ」の祖だと言われています。
多賀城とは
ここ『多賀城』は、神亀(じんき)元年(724)、大野東人(おおののあずまびと)によって創建された奈良・平安時代の陸奥国の国府であり、行政の中心地でした。また、奈良時代には鎮守府も置かれ、軍事の中心でもありました。
仙台湾や仙台平野を一望できる丘陵上に立地し、一辺が1㎞前後のいびつな四角形に塀で囲い、南・東・西に門が開かれていました(北門は未確認)。ほぼ中央に重要な政務や儀式、宴会などが行われた政庁があり、城内の各所に実際の行政事務を行う役所や兵士の住居などが配置されていました。
多賀城の役割
『多賀城』の役割は大きくふたつ。
ひとつは、新たに占領した領地のヤマト化=稲作文化の定着化です。その目的は、現地の住民に中央政府の威力を見せつけ服従させると共に、稲作を定着させ、年貢を納めさせることでした。
そしてもうひとつは、抵抗する蝦夷たちを征討する軍隊の前線基地としての役割です。
稲作という庶民を「飢え」から解放させた夢の作物を持つヤマト朝廷軍は、その豊富な食糧に裏打ちされた強力な軍隊を有していました。そんなヤマト朝廷軍は、蝦夷からの襲撃を防ぐため、ここ多賀城に軍隊を集結させます。そしてさらに北への進軍を虎視眈々と窺っていました。
多賀城ボランティアガイドがおすすめ!
と、そんな古代ロマンたっぷりの解説をして下さったのが、『多賀城跡』にいるボランティアガイドのみなさん!筆者のようなマニアックな人間の質問にも、きちんと答えて下さいました。
ちなみに、ここ『多賀城』は、ご覧のように南からまっすぐに丘陵を登る形で作られています。つまり、正面は南側の仙台平野。既に自らの勢力圏に落ちているところを向いています。
しかし…敵と見なしていた蝦夷は北にいます。つまり、敵に背を向け、既にヤマト化した方向へ向けて作られているのです!
これ…どう思います?普通、軍事拠点として築くのならば、敵に正面を向けて拠点作りをしませんか?北に敵がいるのに、南を向いて作る…?
この作りを見ると、『多賀城』の役割は、軍事拠点というよりも、東北運営の行政拠点という側面が強いように思えます。
もしも純粋な軍事拠点でしたら、当然、攻撃防御に適した場所で、敵のいる方角に向けて作られるはずです。
ですので、ここ『多賀城』も、もちろん軍事拠点的な側面もあったにしろ、それ以上に政治・行政施設としての意味合いの方が強いのではないかと考えられるのです。
…って!こんなお話もガイドさんとのやり取りの中で出てきました!とっても詳しく解説なさって下さるので、ぜひ話しかけてみてください!
私は、ここ『多賀城』は、九州における「大宰府」と同じ役割を担っていたのではないかと考えています。ヤマト朝廷の九州出張所が「大宰府」、陸奥出張所が『多賀城』。
どちらも、日本の国土軸の辺境地です。陸奥国も九州と同じように、多賀城という出張所を介して支配しようとしたのではないでしょうか?
さて、『多賀城』の最奥部には…礎石だけとなった建物の跡が残されています。
こここそが『多賀城』の中枢部分。儀式や行政が行われた「政庁」跡です。
この礎石のうちの11個は、なんと当時のままの姿で発見されています!正真正銘の本物!およそ1200年前の本物の礎石!皆で手を当て、そのパワーを頂きます(笑)
壺の碑 多賀城碑
さて『多賀城』の中枢部分から下ったところで、「南門」が復元工事中でした。奈良の平城京の「朱雀門」を模して、2024年の完成を目指して作られているようです。
もしも完成したら…『特別史跡・多賀城跡』の新たなシンボルとなることでしょうね。
ちなみにこの南門の復元工事現場からすぐのところに…もうひとつの重要な史跡があります。
この建屋の中に納められているのが『多賀城碑』!江戸時代初期にこの地で見つかったもので、『多賀城』が作られた後の762年に作られたものとも言われています。のちに、松尾芭蕉もこの地でこの碑文と相対した…と著書「奥の細道」で触れられています。
はるか1200年もの昔から…そのままの姿をとどめている『多賀城碑』!間近で見学できますので、こちらも合わせてどうぞ!
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