【多賀城近くの『陸奥総社宮』参拝レポート!】ここにお参りすれば東北地方の全ての神社に参拝したのと同じ!?
いやはや!なかなかすごいスポットでした!ここは「特別史跡・多賀城跡」から車で2分ほどのところにある『陸奥総社宮』です。
こんにちは!旅人サイファです!
今回は、【GW仙台宮城旅行記】より、多賀城にある由緒正しい神社のご紹介です。前回記事にした「特別史跡・多賀城跡」に付属する史跡のひとつですが…ここ、歴史を感じるなかなかすごいスポットでした!ほとんど訪れる人がいないのがもったいないくらい!
総社とは何か?
そもそも「総社」とはなんでしょう?岡山県には「総社市」という市もありますよね。
かつてこちらのブログでも、姫路市の「播磨総社」を記事にしたことがありますが、実はこの「総社」は、全国の66の律令国ひとつひとつに存在していたものなんです。
国の総社
日本の律令制において、国司着任後の最初の仕事は赴任した律令国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化された。
神社といえば、「総社」と同じような存在に「一宮」があります。この「一宮」も、全国の律令国全てに存在しています。
と言えば、分かりやすいかと思います。
本来、都から派遣された国司(長官)は、一番初めの仕事として、領国内の(リストにある)全ての神社を巡って、参拝し神事を行うという役目がありました。しかし、律令国と言っても、おおよそ現在の都道府県くらいの大きさがあります。
リストに載せられた全ての神社を回るのは非常に労力を要しますよね?
そこで作られたのが「総社」の制度。国司が政務を司る「国府」のそばに、国内全ての神社から神様をお招きした「総社」を設け、そこで参拝・神事を行うことで、いちいち国内の神社を回らずとも、全ての神様にご挨拶したことにできるという…いわば「役人が楽チンをするための神社」とも言えるものなんです(笑)
陸奥における総社の役割
特に、ここ『陸奥総社』が担った役割は、他の国とはその規模が全く異なるものでした。
何せ…現在の東北地方はその全てが「陸奥国」というたった1つの国だったのですから!※後に日本海側の出羽国(現在の秋田県と山形県)が分離
と、いうことは!ですよ!
陸奥国司に任命されたものは、領地に赴いた際に、東北地方全ての神社を回らないといけなかったのです!なにせ東北地方全土が自らの支配地「陸奥国」なんですから!
東北地方全土って…日本列島のおよそ1/3くらいですからね(笑)
ということで、ここ『陸奥総社宮』には、国内の総社でも最多!全31郡100社の神社の神様が集められているというから驚きです!
陸奥総社に合祀されている神社
- 白河郡 7社 都都古和気神社ほか
- 刈田郡 1社 苅田嶺神社
- 名取郡 2社 多賀神社ほか
- 宮城郡 4社 志波彦神社ほか
- 黒川郡 4社 石神山神社ほか
- 賀美郡 2社 飯豊神社ほか
- 色麻郡 1社 伊達神社
- 玉造郡 3社 温泉神社ほか
- 亘理郡 4社 鹿島天足和気神社ほか
- 信夫郡 5社 東屋沼神社ほか
- 志太郡 1社 敷玉早御王神社
- 磐城郡 7社 大國魂神社ほか
- 標葉郡 1社 草野神社
- 牡鹿郡 10社 拝弊志神社ほか
- 桃生郡 6社 計仙麻大島神社ほか
- 行方郡 8社 多珂神社ほか
- 栗原郡 7社 志波姫神社ほか
- 胆沢郡 7社 駒形神社ほか
- 新田郡 1社 子松神社
- 磐瀬郡 1社 鉾衝神社
- 会津郡 2社 伊佐須美神社ほか
- 小田郡 1社 黄金山神社
- 耶麻郡 1社 磐奇神社
- 斯波郡 1社 志賀李和気神社
- 気仙郡 3社 理訓許段神社ほか
- 安積郡 3社 宇奈巳呂和気神社ほか
- 柴田郡 1社 大高山神社
- 宇多郡 1社 子負嶺神社
- 伊具郡 2社 熱日高彦神社ほか
- 磐井郡 2社 配志和神社ほか
- 江刺郡 1社 鎮岡神社
創建当時の陸奥国の姿
このリスト…とても興味深いと思いませんか?ちょっとこちらの地図を見てください。
ここ『陸奥総社宮』に合祀されているのは陸奥国に鎮座している31郡の神社です。その31郡(※一部統廃合あり)を赤く囲ってみました。
ん?…あれ?東北全土が「陸奥国」じゃなかったっけ?
ここ『陸奥総社宮』に合祀されているのは"創建当時"の陸奥国内全ての神社です。
このことから何が分かるか…?
そう!実はここ『陸奥総社宮』が成立したとされる平安時代初期の段階では、北東北までヤマト朝廷の支配が及んでいなかったということ!言い換えれば、『平安時代まで北東北は日本じゃなかった』とも言えるのです!!
当時の感覚では、北東北は稲作農耕生活文化に染まらない「野蛮人」、「異民族の暮らす別の国」でした。
- 稲作文化を受け入れた現地人の支配
- 北東北侵略軍の前線基地
という2つの役割を担っていました。
上の地図を見れば、「多賀城」を拠点にして、北へ北へと、その支配地を拡大している最中ということが良く分かるかと思います。
残念ながら、ここ『陸奥総社宮』がいつ頃創建されたのか、はっきりとした年代は伝わっていません。
しかし!ここに合祀されている神社群を見れば、当時の世界観が良く見えてきます。
つまり、平安時代初期の段階では、ヤマト=日本はこのラインまで!この先に、ヤマトと蝦夷の国境があり、ヤマト朝廷軍は北へ進撃しているところ、蝦夷は必死に防戦しているところ…その姿がありありと見えてくるではないですか!
ちなみに、北東北の蝦夷が屈伏するのは、さらに後のこと。「坂上田村麻呂」が征夷大将軍に任命され北東北に派遣されてから、ヤマト支配地域は現在の岩手県中部まで拡大されます。
そしてそこからさらに北、青森県までヤマト支配が確定するのは、平安時代も末期。源義家による後三年の役の前後になってようやく、ヤマト式の郡が置かれ、日本化が確定するのです。
ここ多賀城にある『陸奥総社宮』は、そんな時代背景の中で作られた、重要な史跡です。決して大きな神社ではありませんが、境内にずらーっと並んだ合祀一覧表を見るだけでも、価値があります。
かつて東北の首都でもあった「多賀城」。政庁跡だけでなく、ぜひここ『陸奥総社宮』まで足を運んで、歴史のロマンを感じて見てください!
陸奥総社宮
アクセス
営業時間
24時間参拝自由
定休日
年中無休
参拝料金
無料
駐車場
無料駐車場あり
アドレス
022-368-8065
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