現在日本には全部で47の都道府県が置かれていますよね。
この47の都道府県には、それぞれひとつずつ県庁所在地が置かれています。大抵は、その県内で最も長い歴史(規模)を持つ都市に県庁が置かれる事が多いのですが…本州の最北端「青森県」は、その他の県とはちょっと様相が異なるのです。
…こんにちは!日本全国を旅しながら、各地の地名やルーツを考察するのが大好きな旅人サイファです。
筆者は先日、北国青森県に取材旅行に行ってきました。この時、ふと思ったんです。
現代に生きる我々からみると、「青森県」の県庁所在地が「青森市」なのは、ごくごく自然なことですよね?
しかし歴史的に見ると「青森」などと言う都市は…全国的には無名!地方の寂れた港町でしかなかったのです!
調べてみるとこれがまた面白い!実は「青森」という町は、全国47都道府県の中でも唯一、人工的に作られた県都なんです!(まあ…街なんて全て人工物なんですけどね)
「青森県」の誕生は明治4年、明治政府により断行された「廃藩置県」まで遡ります。
明治政府は、江戸時代までの大名が支配する「藩」体制を解体し、新しく「県」を置くことで、旧体制から脱却した新しい統治を行うことを決めます。
第一次廃藩置県では、各地の「藩」を名前だけ「県」に置き換えるという、比較的穏便な措置で済ませました。
しかし、その後に行われた第二次以降の廃藩置県では、旧大名領はその多くが解体・統合され、新たに72の県と3つの府へと抜本的に再編成されます。
この時に、本州の最北部では、旧弘前藩領(現在の青森県津軽地方)と旧南部藩領のうち北部(現在の青森県三八下北地方)、そして旧松前藩領(現在の北海道南部)を統合して「弘前県」が作られます。
しかし、実は西の弘前(津軽)と東の八戸(南部)は、お互い殺しあいをしたことがあるほどで、強烈に仲が悪い!
当時の明治政府は薩摩人や長州人が中枢を握っていたため、北東北にそんな確執があることを知らなかったのかもしれません。
こうして作られた「弘前県」でしたが、やはりと言うべきか…東の八戸周辺からは大クレーム!憎き津軽と一緒にされてたまるか!と大反発が起きます。
当時、弘前県令(現在の県知事に相当)であった野田豁通(のだひろみち)は、そんな八戸住民の批判をかわすため、県域の中央部付近へ県庁移転を画策します。
この時に目をつけられたのが…北海道へ向かう航路の拠点であった港町「青森村」なのです!
元々は陸奥湾に面した漁村で「善知鳥村(うとうむら)」と呼ばれていたこの町は、江戸時代中期に港町として開発の手が加えられました。
この時、港の出入り口近くに小高い森があったために「青森村」と名を変えられたと言われています。
明治維新当時、津軽藩内では大きめの港町であったとは言え…全国的には無名の寒村「青森村」。
政府は野田県令の提言を受け入れ「弘前県」誕生のわずか数週間後、新たに青森村に県庁を置く「青森県」へと改名を決定します。
- 北海道航路の拠点であったこと
- 県域のほぼ中央部に位置していたこと
- 八戸住民から弘前アレルギーが強かったこと
などといった様々な要因から選ばれた「青森村」。古くから発展していた弘前でも八戸でもなく、「青森」という誰も知らない港町を県都に定めて県作りを行った野田豁通の英断でした。
寂れた港町でしかなかった「青森村」は、この時から「青森県」の中心地として発展。現在の「青森市」の姿へ変貌を遂げることになるのです!
当時の県令・野田豁通が「青森村」に目を付けなければ、現在に続く「青森県」は誕生しませんでしたし、場合によっては八戸で大反乱が起こっていたかもしれません。
つまり、現在の「青森県」があるのは、「青森村」を県庁所在地として指定した野田豁通のおかげ!彼が、それまで誰も知らなかった「青森村」を県都としたからこそ「青森県」が誕生したのです!
津軽と八戸の対立という、県内部での諍いは残っているものの…絶妙なバランスで青森県が経営されている青森県。「弘前県」でもなく、「八戸県」でもなく、人工県都「青森」を作った野田豁通のおかげで…現在の『青森県』は存在しているのです!