旅人サイファのお出かけブログ

R3.5.15 ブログランキングサイト国内旅行ジャンル第1位獲得!旅行プランナー旅人サイファが送る『旅行に行きたくなるブログ』です!ぜひお立ち寄りください♪

スクロールして項目をお選びください!

【津軽VS八戸の仁義なき戦い!】青森県の東西はなぜ仲が悪い?(リライト)

青森県津軽(弘前・西部)と八戸(東部)って…同じ県内に有りながらとっても仲が悪いって、ご存知ですか?】f:id:traveler-cipher:20220522024913j:image
本州の最北端に位置する県が、青森県です。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」にも歌われた、本州最果ての地ですよね。

そんな青森県ですが、実はその県内部に大きな火種を抱えているのをご存じでしたか?

 

県外の方にはあまり知られていませんが…実は、青森県の西部の住民と東部の住民は、ひっじょーーーーーーーーーに仲が悪いんです。

 

 

今回は以前にも一度お話しました青森県のお話を再構成してお届けします。この流れを理解していると…北国青森県のことを、とっても深く理解できますよ!

 

現在の青森県には、3つの中心地があります。

① 県中央部にある青森市(県庁所在地)

② 県西部にある弘前市

③ 県東部にある八戸市

実はこの三都市は、それぞれ複雑なバランスによって成立している都市なんです。

 

それもそのはず。実はかつて、西の弘前(津軽)と東の八戸(南部)はお互いにお互いを殺し合うほどに憎みあったライバル関係だったのです!

そしてさらに、実はその東西の確執の結果作られたのが、現在の「青森市」。つまり、東西の争いが無ければ、「青森市青森県も存在しなかった」とも言えるのです!

 

事の起こりは戦国時代にまで遡ります。

当時の北東北は、鎌倉以来の名族・南部家が治めるエリアでした。その領地は広大で、現在の青森県から岩手県中部までのほとんどが南部家の領土でした。f:id:traveler-cipher:20220515162452j:image

 

しかし、世は戦国時代。東北ののどかな地方にも、突然戦乱の火の手があがります。

南部家の一族であった「大浦為信」という武将は、南部本家の殿様からの信頼も厚く、現在の青森県西部である津軽地方を治める代官として派遣されていました。

 

しかしこの大浦為信が…ある時突如、南部本家を裏切り、津軽地方を自分の領地としてしまうのです。

 

こちらはTwitterにて【遙獄@yaoyue00085856】さんが作成されていた、江戸時代後期の全国石高分布です。この図の北東北部分に注目してください。
f:id:traveler-cipher:20220517175742j:image

 

広大な面積を誇る南部領(赤色)ですが、寒冷+山がちのため実はほとんど米が獲れない!一方、西の津軽領(黄色)は面積は狭くとも、赤い部分(=米の多く取れるエリア)が多いのが分かりますよね?

f:id:traveler-cipher:20220523082915j:image

そう!津軽地方は、北東北で唯一の米どころ!…ということがよく分かるかと思います。

つまり、津軽地方は米のあまり獲れない北東北において「生命線」とも言えるほど重要な土地だったのです!

 

大浦為信は、この地を強引に支配下に置くと、自らの名を「津軽為信」と変え、津軽地方の正統な支配者として振る舞いはじめます。

当然、本来の領主である南部家は怒り心頭!津軽討伐の兵を向けますが…相手もさるもの。一進一退の攻防となり、結局、反乱を鎮圧することはできずに膠着状態に陥ります。

 

このころ中央では、豊臣秀吉による天下統一が完成しつつありました。

目鼻の利く津軽為信は、なんといち早く天下人・豊臣秀吉に使いを送り、津軽地方の正統な領主として認める朱印状を獲得してしまいます。南部家があとから正統性を主張しますが…全て後の祭り。津軽為信は正統な津軽の支配者として認められてしまうのです。こうなると南部家はもう手を出すことは叶いません。

 

この南部家の恨みは凄まじく!秀吉死後の江戸時代からずっと、この恨みを抱き続けます。実際に江戸中期には、南部藩士による津軽藩主暗殺未遂事件も起こっているほどなのです!(相馬大作事件)

 

時代は下って明治時代。薩摩長州を首班とする明治新政府は、こんな北東北のライバル関係などは一切無視して、廃藩置県を断行します。


f:id:traveler-cipher:20220515162527j:image

その結果が悲惨でした。南部家の領地は中南部の盛岡周辺は「岩手県」へ、そして北の八戸周辺だけは分断され、あろうことか憎き津軽と一緒にされてしまうのです!

しかも、津軽家の首都である弘前を中心とした「弘前県」内の一地方都市とされてしまう屈辱!

 

この八戸の分割への反感は凄まじく、各地でかなりの反発が起こったと伝わります。

 

 

その影響もあってか、この時作られた「弘前県」はわずか数週間ほどで名を変えます。

この時に作られたのが現在にまで続く「青森県」なのです。


f:id:traveler-cipher:20220515162553j:image

これは、当時弘前県の区域に含まれていた北海道南部への海運が便利な「青森港」を軸にした県にするためだとか理由が述べられていますが…実際は、八戸住民からの批判をかわす目的も強かったようです。一説によれば、「弘前県に入れられるくらいなら挙兵する!」と主張した一派もいたとか?

 

こうして、津軽VS八戸の永年の確執を抱えたまま「青森県」は誕生するのです。

この確執は非常に根深く、八戸側からは何度も青森県からの分離独立→岩手県への転県運動が起きているほど!

 

驚くことに、現在でも、八戸周辺の住民は自らを「青森県人」ではなく「南部人」として認識していると言われます。その証拠に、八戸市民は岩手県の地方紙である「岩手日報」を購読し、「岩手めんこいテレビ」を視聴しているとか!

f:id:traveler-cipher:20220507090646j:image

こちらは「岩手めんこいテレビ」の放送エリア。ばっちり八戸周辺までカバーしているのが分かりますよね。

同じ青森県民といっても、西の津軽人と東の南部人の気質は大きく異なるとも言われています。

 

2022年の現代に至っても、県内の主要都市である「八戸市」と、県庁所在地「青森市」や「弘前市」と高速道路で繋がれていないのは、その異常性を端的に表しているとも考えられます。

 

現在までシコリを残している青森県内の東西対立。まさに怨み末代までとはこのことか…恐るべし!

 

過去記事はこちら!