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『八戸城跡』と『根城』八戸の町を作った2つの城!【青森グルメ取材旅行記】⑥

【八戸は南部一族の聖地!八戸城と根城!】

青森県八戸市には、この地の領主南部一族にとって重要な城郭がふたつあります。

ひとつが『八戸城』そしてもうひとつが『根城(ねじょう)』です。今回は、現在の八戸市を形作る礎となった2つの城をご紹介します!f:id:traveler-cipher:20220427220727j:image

 

こんにちは!旅人サイファです。

今回は【青森県グルメ取材旅行記】から、八戸の歴史を語るうえで欠かすことができないスポットに立ち寄りましたのでご紹介します。

 

【八戸城】
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八食センターでお昼ごはんを食べてから、立ち寄ったのは八戸の中心地。まずは、今回の旅程でどうしても行きたかったこちらへ。

 

ここは、八戸のいわゆる市役所です。

 

「え?ただの役所?」

…って思うじゃないですか!いやいや!それがですね!ここ八戸の役所は…日本で唯一ここだけにしかない役所だったんです!って!

…この話だけで、白ご飯3杯いけちゃうくらい(言い過ぎ!)面白い話なので、別で記事にまとめますねした。

 

この役所の建っている一帯が、かつて『八戸城』でした。

周囲は都市化してしまい、現在見られる遺構はそれほど多くありません。唯一、役所と通りを隔てた反対側に、立派な門が残されています。

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この門は、八戸城角御殿表門で、青森県重宝に指定されています。「古桜門」とも言われ、現在は南部会館の表門となっています。

 

八戸城

八戸城は、馬渕・新井田両川の形成した沖積平野に突き出た洪積台地の先端部を利用して築城されている。

建武元(1334)年、陸奥国司「北畠顕家」の国代「南部師行」が糠部郡八戸に根城を築いたが、その後間もないころに、その孫信助が築いた中館がこれであろうという。この一族は根城・中館および新田館に居住し、八戸地方を鎮めてきた。

 

戦国時代の末に、三戸の「南部信直」が朱印を受け、南部内七郡を支配するようになった。その子「利直」は、寛永四(1627)年に根城南部氏(八戸氏)を遠野に移して、八戸を直支配とし、みずから縄張りをして当城および城下町の作事・普請をしたと伝わる。

(後略)


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ここ『八戸城』は、盛岡藩南部家の支藩が置かれた場所です。元々は、八戸市街地の西方にある「根城」の支城として作られた中世の館が置かれていたようですね。

 

江戸時代中期の1627年に、本家・盛岡藩南部家から「南部直房」公が分家して支藩を建てた際に、近代城郭に改修されました。


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市役所の裏手は三八城山公園として整備されています。

 

公園の奥まで進むと、地形を巧みに使った縄張りがされていることがよく分かります。ここだけが高台になっていて、周囲を圧しています。見張らしも素晴らしい!

 

ちなみに八戸は、広大な南部藩にとって副首都とも言える重要な土地でした。それもそのはず…ここ八戸の地は、南部家初代「南部光行」公が、源頼朝より陸奥糠部郡を与えられた際に上陸した地!まさに南部家にとって聖地とも言える場所なのです。

この地から、南部家45代679年にも及ぶ東北支配が始まったと考えると…その重さをぐっと感じることができますよね。

 

こちらは八戸市内の「櫛引八幡宮」に展示(本旅行記④ 参照)されていた南部家の系図です。

八戸から上陸し、東北に南部家の一大帝国を立ち上げた初代「南部光行」には、6人の男子がいました。彼は、自らの本拠地をやや南方の「三戸城」へ置き、6人の男子は領内各地に配置します。そして、それぞれの領地の地名を苗字とする一族支配を行うのです。

長男(庶子) 行朝→一戸家の祖

次男(嫡男) 実光→宗家を継ぎ三戸へ拠点を移す

三男 実長→八戸家の祖(根城を築く)

四男 宗朝→四戸家の祖

五男 行連→九戸家の祖

六男 朝清→七戸家の祖

八戸には三男の実長が配置され、彼とその子孫は、ここ八戸を拠点とした南部家内の重要一族として繁栄していくのです。

 

ちなみに、江戸時代にここ『八戸城』を作って支藩を作ったのは、三男実長の系統ではなく、宗家(三戸系統)26代南部利直の三男から連なる家系です。

 

なお、実長の作った八戸家は、八戸藩立藩に合わせ、仙台藩伊達家と境を接する要衝・遠野へ移されています。

 

【根城】
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さてもうひとつ。八戸市民にとって「八戸城」よりも重要な位置付けとされているのがここ『根城』です。先述の「南部(八戸)実長」から数えて4代目の「南部師行」によって築城されました。

 

こちらは江戸時代に「八戸城」が作られるまで、八戸の中心地、本城として機能していたところです。日本百名城にも数えられているお城ですね。


そもそも『根城』って…不思議なネーミングだと思いませんか?

この城を作った南部師行は、鎌倉時代末期、後醍醐天皇(南朝)方の有力武将「北畠顕家」の副将格として活躍した人物です。

 

一説には、南部師行が八戸に居城を築いた際に、上役にあたる北畠顕家から

「この城は南朝の根本となる城である!」

と言われたことから、『根城』と名付けられたとも伝わります。


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この日は残念ながらまだ冬季閉鎖期間中のため内部には立ち入りできませんでした。しかし、かつて館が置かれていたであろう郭や堀切の跡は良く残されていますね。その規模の大きさが窺えます。


ここ『根城』は、八戸南部氏が遠野へ領地替えされるまでの、およそ300年に渡って八戸の中心として機能していた城です。替わって八戸に建てられた八戸藩は、根城を捨て先にご紹介した『八戸城』を新たに築城し居城としました。

 

鎌倉、南北朝、戦国、江戸…と戦乱の世を駆け抜けた中世の城郭『根城』。


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現在、主郭内には当時の建築がいくつか復元されていますが…それがなんと茅葺きや板葺き!この城が、江戸時代初期まで存続していたというのが正直驚きです。

 

同時代、中央では大阪城名古屋城のような石垣と天守閣を持つ巨大な近世城郭が出来上がっている頃です。それらとは一線を画す、土塁と茅葺き板葺きの城。

中央と北東北の時の流れの違いを、強く感じる城郭です。もしかしたら、100年近く技術的な差があったかもしれません。

 

青森県八戸市を形作った『八戸城』と『根城』。ぜひ2つを訪れてその違いを楽しんでみてください!

 

根城 根城の広場

アクセス

JR東北新幹線ほか 八戸駅より路線バス

八戸自動車道 八戸ICより10分

 

営業時間

9:00-17:00

 

定休日

毎週月曜日

祝日の翌日

年末年始

 

入場料金

一般250円 高校大学生150円 小中学生50円

※併設の市立博物館とセット券あり

 

駐車場

無料駐車場あり

 

アドレス

青森県八戸市大字根城字根城47

0178-41-1726

 

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