こんにちは!旅人サイファです。
昨年行きました【秋の鹿児島旅行記】も、最後の立ち寄りスポットの紹介となりました。この後は、鹿児島空港近くの妙見温泉に宿泊して、翌朝の飛行機で東京へ戻ります。
最後に立ち寄ったのは…ここ!鹿児島県立加治木高等学校です。え。高校?
そうなんです。ここ、県立加治木高校は実はかつて島津の殿様の隠居屋形があった場所なのです。そのため、高校の周囲は見事な石垣で囲われています。
切石を使ったかなり高度な石垣がずらり!
ここに住んでいた殿様とは、戦国最強とも言われる、かの「島津維新公」…関ヶ原の戦いとその突撃撤退戦を指揮した「島津義弘」その人です。
関ヶ原の戦いの後、家督を長男の島津忠恒(後に家康の一字をもらい家久と改名)に譲り、自らはここ、加治木に隠居屋形を作り移り住みました。
維新公が屋形を築く前には、ここの背後の山には「加治木城(かじきじょう)」がありました。島津家と敵対したこの城を攻めるために、日本合戦史上初めて火縄銃が使用されたのが、ここ加治木であるとも言われています。
現在『加治木屋形跡』には先述した県立加治木高校が建てられていますが、その一画は加治木護国神社として開放されており、小さなお堂が祀られています。
その境内の片隅には、かつての庭園跡でしょうか?石橋や池の跡も残されています。もしかしたら…晩年の維新公も、この庭を眺めて過ごしたのかもしれませんね。
隠居後、年齢と共に衰弱していった維新公に、こんな逸話が残されています。
晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。
1619年、維新公はここ『加治木屋形』で息を引き取ります。享年85。九州制覇の戦い、秀吉の九州征伐、そして朝鮮出兵と関ヶ原の戦い…。戦後の世に生まれ、常に戦場を駆け抜けた生涯でした。関ヶ原の戦いのあと、息を引き取るまでの15年余りだけが…戦の無い穏やかな日々だったかもしれません。
死後は薩摩の軍神として、先日記事にあげた伊集院の「徳重神社」とここ加治木の「精矛神社」に祀られています。
加治木 島津屋形跡
アクセス
九州自動車道 加治木ICより5分
見学時間
24時間自由
定休日
年中無休
入場料金
無料
駐車場
なし
アドレス
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