こんにちは!旅人サイファです。
【秋の鹿児島旅行記】!前回ご紹介した薩摩川内市の「泰平寺」から、およそ30分。古い町並みの残る『入来麓(いりきふもと)』へやって来ました。
「麓」とは、薩摩藩独特の外城制度です。
徳川幕府による一国一城令で、全国の大名は領内に複数の城を持つことを禁じられていました。薩摩藩は、領内各地に「麓」と呼ばれる疑似城下町を多数配置、家臣を地頭として任命しその地域の支配を委ねました。
以前、「出水麓」の武家屋敷をこちらのブログでも紹介しましたね。
今回訪れた『入来麓』も、薩摩藩内に多数作られた「麓」のひとつです。
県内の他の麓と同じように、ここ『入来麓』にもかつての武家屋敷の雰囲気が色濃く残されています。このあたりは、「重要伝統的建造物群保存地区」…通称「重伝建」にも指定されています。
『入来麓』の武家屋敷群の特徴は、玉石で作られた独特の石垣で囲まれた街路です。残念ながら、江戸時代以前から残る建築物はあまりありません。
石垣と生け垣に囲まれた区画には民家が建てられており、今も武士たちのご子孫でしょうか?が暮らしています。
町を歩くと至るところに、かつてを彷彿とさせる武家屋敷門が点在しています。
あまり観光地化していませんので、雰囲気は当時のまま!ひょっこりと侍が出てきてもおかしくない、ゆったりとした空気が流れています。
武家屋敷門でも、最も特徴的なのがこの「茅葺き門」。重厚な茅葺きを載せた珍しい形の門です。ものすごい風格!
町を歩いていると、一画に立派な茅葺き民家が見えてきました。
こちらは「旧増田家住宅」。国の重要文化財に指定されています。
明治6年に建てられたというこちらの住宅は、家族が住居する「なかえ」と接客用の「おもて」で構成されています。「おもて」は家の主人の専用空間でもあり、一段高く作られています。
実は「なかえ」と「おもて」は別々の建物。そのため、家の中に雨樋が作られています。それも大きな竹を何本も使った頑丈なもの!
家の外から見ると、雨樋の意味も分かりますよね。
左が「なかえ」右が「おもて」です。屋根からの雨水を中間の雨樋に流す作りになっています。非常に趣きのある建築でした!
さて、「旧増田家住宅」を出てすぐのところにある「御仮屋(おかりや)」へ移動します。
「御仮屋」とは、地頭が政務を取ったいわば「麓」の中枢部分です。現在は、入来小学校が建てられています。出水も御仮屋跡が小学校になっていましたね。
江戸時代よりもっと昔、鎌倉~室町時代には、ここと背後の山に『清色城(きよしきじょう)』という中世の城郭がありました。この小学校の裏手に、城跡の登城口があるようですので行ってみましょう!
入来小学校の裏から登城口までの間は、武家屋敷の趣きが最も色濃く残るエリアです。
緩やかに上りつつカーブする玉石垣が美しい!
『清色城跡』は、自然の地形を活かした縄張りが見事!
最大の見所がこの堀切です。こうやって俯瞰すると…どこが登城口か分かりませんよね?実は正面の岩場の右手に、細い道が付けられているんです。
近付いてみると…あれ?岩場に隙間が?ここを曲がると…
なんと驚き!人ひとりがようやく通れるか…狭い堀が切られています。
実際に戦いが行われたかどうかは分かりませんが、この堀切の防御力はかなりのものですね!寄せ手は低いところから1列で進むしかありません。上から弓や槍で狙われたらひとたまりもありませんよね。この堀切だけでも一見の価値ありです!
ここ『清色城跡』や『入来麓』は、鎌倉時代に領地を与えられた「渋谷一族」が治めた土地です。
現在は東京有数の繁華街になっている渋谷一帯を治めた渋谷光重は、新たな恩賞として賜った薩摩の領地を、自分の次男~六男に分け与えました。
このうち、五男・渋谷定心に与えられたのがここ『入来郷』です。やがて彼とその子孫は姓を「入来院家」と改めます。その後紆余曲折ありながらも、入来院家は600年以上の長きに渡って、明治維新までここ『入来郷』の地頭として治めたのです。
ちなみに、前の記事で述べた戦国末期の名将・島津義久の母は、ここ入来院家から嫁に来た女性ですし、日露戦争の名将・東郷平八郎も同じ渋谷の一族です。
まさか鹿児島の山あいの里に、東京渋谷との関連があったとは!薩摩北部の有力一族であった、渋谷一族の町『入来麓』。派手な観光地ではありませんが、質実剛健な、いかにも薩摩らしい町並みが魅力の町です!ぜひ一度訪れてみてください!
入来麓/清色城跡
アクセス
南九州西回り自動車道 川内ICより30分
営業時間
24時間散策自由
定休日
年中無休
入場料金
散策無料
駐車場
観光用無料駐車場あり
アドレス
0996-44-5200(入来麓観光案内所)
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