こんにちは!旅人サイファです。
本日も【秋の鹿児島旅行記】からの記事をお送りします。
前回ご紹介した伊集院「徳重神社」を出て、鹿児島県随一の大河「川内川」河口近くの町、薩摩川内市へ向かいました。
ここ川内は、古代に国府が置かれていた、かつての薩摩国の中心地です。
その古い町の一画に、ある歴史的な現場となった寺院があります。
それが今回ご紹介する『泰平寺(たいへいじ)』です。
戦国時代末期、九州では「薩摩の島津義久」、「豊後の大友宗麟」、「肥前の龍造寺隆信」という三者による派遣争いが熾烈を極めていました。この中で、最も勢いがあったのは薩摩の島津義久でした。
島津勢は、1584年「沖田畷の戦い」で肥前の龍造寺隆信を討ち取り西九州を勢力下に治めると、やがて北九州の大友領にも侵攻を開始します。
この時代の島津家には、当主である島津義久と、彼の優秀な弟たちが揃った有力勢力でした。長男・義久、次男・義弘、三男・歳久、四男・家久は、「島津四兄弟」と呼ばれ、その勇猛さは周辺の敵対勢力から恐れられていました。
島津勢は九州全制覇を目指して、大友家の勢力圏である北の筑前(現在の福岡県)、東の豊後(現在の大分県)へ向かって進軍します。
迎え撃つ大友家の命運は風前の灯…かと思われたその時!中央で既に天下統一に大手をかけていた豊臣秀吉の大軍勢が到着します。豊臣軍は、大友家からの救援要請を受け、攻め寄せる島津軍を迎撃、徐々に押し返して島津軍を反転させ、一気に形勢逆転!今度は怒涛のごとく島津家の本国薩摩へ迫ります。
こうして、反対に攻められる側となった島津家。必死の抵抗を続けるものの…衆寡敵せず。ついに薩摩本国まで追い詰められてしまいます。
やがて豊臣秀吉とその本軍も薩摩へ到着、川内に本陣を張ります。各地で必死に防戦していた島津家も、ここに至ってようやく抵抗の無駄を悟ります。鹿児島に戻っていた島津方の総大将・島津義久は、頭を剃り「島津龍伯」と僧体になって川内へ向かいます。
そして、秀吉が本陣を張る『泰平寺』で秀吉と対面し全面降伏。ついに島津家も秀吉の軍門に下るのです。
そう!ここ川内の『泰平寺』は、豊臣秀吉と島津義久の対面したその現場なのです!
『泰平寺』に隣接した公園には、秀吉と義久の対面をモチーフにした銅像が置かれています。
『泰平寺』は、明治維新の廃仏毀釈によって徹底的に破壊されています。現在のお堂は大正になってから地元の有志によって再建されたもので、寺域もかなり狭くなっています。
隣接する公園には、「和睦石」という、当時の境内に残されていた庭石を集めたものがあります。この石は…当時の秀吉と義久の対面を見守っていたかもしれませんね。
秀吉はここで九州征伐を完遂し…残るは関東の北条氏政と奥州の伊達政宗を残すのみとなります。
豊臣秀吉と島津義久。この時代を代表する名将が対面した歴史の現場『泰平寺』。まさに時代が動いたその場所なのです。
もしも薩摩川内市までお越しの際は、ぜひ立ち寄ってみてください。
泰平寺
アクセス
営業時間
24時間参拝自由
定休日
年中無休
参拝料金
無料
駐車場
敷地内無料駐車場あり
アドレス
鹿児島県薩摩川内市大小路町48-37
0996-22-4593
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