こんにちは!旅人サイファです。
今回は【秋の鹿児島旅行記】より薩摩藩士の魂とも言うべきスポットのご紹介です。
鹿児島市内を離れ、西に車で30分ほど。たどり着いたのは鹿児島県日置市伊集院。
ここは、島津家17代当主・島津義弘公が、自らの菩提寺とした寺院のある町です。彼は若き日を父と共にこの地で過ごしています。
JR伊集院駅前には、勇猛果敢な島津義弘公の騎馬像が建てられています。
「かかれぇー!」と声をかけているようでカッコいい!
昭和ヒトケタ生まれの鹿児島出身の知人によると、彼が子供の頃にはまだこの風習は続けられていたそうです。(現在はお祭りイベントとして形を変えています。)
「妙円寺詣り」とは、9月のある日の夜、ここ日置市伊集院の一画にどこからともなく大量の鎧武者が集まり、妙円寺という寺院に参拝して夜明け前には去っていく…という風習です。
その「妙円寺詣り」の目的地こそが、ここ日置市伊集院の『徳重神社』なのです!
かつては、ここに「妙円寺」と言う寺院が建てられていました。明治維新後の廃仏毀釈によって寺院は解体されてしまいましたが、その本尊はここ『徳重神社』に移され、今も篤く信仰されています。※現在の妙円寺は境内の西へ移転新築されています。
その『徳重神社』にある本尊こそが、島津家17代当主「島津義弘公像」!全国に勇名を轟かせた、戦国の猛将です。
そして「妙円寺詣り」が行われる9月14-15日は…天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」が行われたまさにその日なのです!
鹿児島城下に住む武士たちは、9月14日の深夜に全身鎧兜姿で鹿児島を出立。
夜を徹して無言で伊集院の地を目指します。その距離およそ20km(片道)。夜明け前には妙円寺での参拝を終えて、また来た道を戻り、日の出前には鹿児島城下へ戻るのです。そして徹夜明けのまま何食わぬ顔して日々の業務についた…と言われています。
その「妙円寺詣り」の目的地こそが、ここ『徳重神社』なのです!
数年前のNHK大河ドラマ「西郷どん」でも描かれていましたが、若き日の西郷隆盛や大久保利通も、この行事に参加したという記録が残っています。
その後は、鹿児島城下に住むものだけでなく、県内各地からはるばるここ伊集院を目指して参拝するようになり、現在はお祭りイベントとして、毎年10月の第4土日に開催されています。(この年は筆者が訪れたその1週間前に開催)
そもそも、なぜ関ヶ原の戦いの日に合わせて『妙円寺詣り』という行事が行われるようになったのでしょうか?実は関ヶ原の戦いは、島津家にとって痛恨の記憶なのです。
1600年、美濃関ヶ原で行われた天下分け目の決戦で薩摩の島津義弘は、西軍豊臣方に立って参戦しました。
しかし、現場の大将・石田三成の横柄な態度に腹を立てた義弘は、関ヶ原の戦い本戦において不気味な沈黙を続けます。戦いが始まってからも、東軍に向けて進軍するでもなく、かといって西軍を攻撃するでもなく、一歩も動かず自陣で沈黙していたのです。
やがて、小早川秀秋らの裏切りによって西軍が総崩れになった時、ようやく島津勢は動き出します。
進軍する先は、東軍・徳川方の主力部隊。敵に背を向けて撤退するのではなく、敵中枢に突撃してその裏側に出、そのまま撤退するという、言わば「敵中突破」による撤退を敢行するのです。
戦開始前1600人いた島津兵は、敵中突破という、史上例を見ない凄まじい撤退戦を敢行します。島津兵は最後尾の兵をわずかずつに残しつつ抵抗、彼らが犠牲になっている間に義弘を逃がす「捨てがまり」という壮絶な戦法で死期を脱します。義弘の甥で、副将格であった島津豊久もこの地で戦死するほど!
島津勢は、鈴鹿の山中を三日三晩さ迷い、ようやく堺港から船を出し海路薩摩へ戻ることができました。無事に薩摩まで帰還できたのは、義弘含めてわずか80人程度だったとも言われています。生き残れたのはわずか5%のみ。95%が戦死するという壮絶な撤退戦でした。
この島津義弘の敵中突破の撤退劇は、「チェスト関ヶ原!」「義弘公の苦労を忘れるな!」と、代々の薩摩藩士の心に刻まれる出来事になっているのです。
伊集院で行われる『妙円寺枚詣り』は、島津義弘(剃髪して名を変え島津維新公)の艱難辛苦を忘れまじとする、藩士の心の拠り所となっていったのです。
関ヶ原の戦いにおける島津義弘の奮戦に端を発する「妙円寺詣り」という薩摩独特の行事。その現場である伊集院や『徳重神社』に立つと、当時の薩摩藩士たちの熱い魂が、今もそこにあるように感じられます。
アクセス
南九州西回り自動車道 伊集院ICより7分
営業時間
24時間参拝自由
定休日
年中無休
参拝料金
無料
駐車場
参拝者用無料駐車場あり
アドレス
099-272-3975
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