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日朝外交の裏側で行われていた対馬の秘密外交『柳川一件』とは?前編

こんにちは!旅人サイファです。

今回は長崎県対馬絡みの歴史談義をお届けします。

 

対馬は、九州と朝鮮半島の間に浮かぶ離島です。

対馬朝鮮半島は目と鼻の先、対馬の北部からは、対岸の朝鮮半島・釜山の明かりが肉眼で見えるほど近いんです。

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ここ対馬鎌倉時代から島主として治めてきた宗一族にとって、朝鮮国家との外交・交易は死活問題でした。

なにせ、対馬ではほとんど米が取れません。そのため、朝鮮半島との交易こそが島の生命線。朝鮮半島仕入れた薬材や物品を日本国内に売却することで、島の食糧や財政を支えていたのです。

 

基本的には対馬と朝鮮は、外交を通じて友好な関係を築いていましたが、時代の流れの中で時折、摩擦が生じています。

 

鎌倉時代元寇

元(モンゴル軍)に従って朝鮮軍対馬を襲撃

 

室町時代倭寇

海賊化した松浦、壱岐対馬の漁民が朝鮮沿岸を襲撃し略奪行為を行う

 

倭寇征伐(応永の外寇)

倭寇を征伐するために朝鮮軍対馬を襲撃

 

というように、時折戦火を交えながらも、紆余曲折、宗一族は硬軟織り混ぜた巧みな外交によって、その都度国交を回復させ、朝鮮国との友好関係を続けていました。

しかしこの両者の関係を根底から破壊する、決定的な事件が起こります。

それが豊臣秀吉による「朝鮮出兵」です。

 

1592年、朝鮮半島へ渡った第一陣の大将は小西行長。そしてその第一陣の最前線、先鋒を務めたのが、小西行長の娘を娶っていた対馬島主「宗義智(そう よしとし)」でした。

彼は5000の対馬兵を率いて日本軍の最先鋒を任されたのです。

秀吉の目論みは「朝鮮国の内情に詳しい宗義智ならば、平和理に朝鮮を屈服させられるだろう」ということだったのでしょうが…そうはいかず。宗義智小西行長らが水面下で行っていた和平交渉も実らないまま…結局日本軍と朝鮮軍は全面戦争に突入します。

 

1598年、豊臣秀吉の死去によってようやく終結したこの戦争によって、日朝関係は修復不可能なほどに冷え込みます。その煽りを最も強く受けたのが…これまで朝鮮との外交・交易で身を立てていた、対馬島主・宗義智でした。

 

豊臣秀吉の死後、その後継者を巡る争いでもある関ヶ原の戦いには、実は宗義智率いる対馬軍も参戦しています。それも、岳父小西行長に従って西軍として!(※戦後、小西行長徳川家康によって斬首刑にされています)

本来であれば、西軍に属した武将は全て死罪もしくは追放罪とされるのが常なのですが…宗義智は罪を問われず、対馬の領土も安堵されます。

 

なぜ宗義智は罪に問われなかったのか?

それは、冷え込んだ日朝関係を改善させる役割は、宗義智の他には任せられないという理由からです。「余人には替えがたい」とはこのこと。

朝鮮との外交を一手に担っていた対馬島主だからこその恩赦でした。

 

そして徳川家康は、宗義智にこう命じます。

「朝鮮との国交を回復せよ」

 

秀吉の朝鮮出兵により、絶望的なまでに悪化した日朝関係。この冷えきった関係を修繕し、改めて徳川政権と朝鮮国との国交回復を図ること…それが、初代対馬藩主・宗義智に課せられた使命でした。

 

しかし、つい数年前まで戦争をしていた両者。特に戦場とされ国土を荒らされた朝鮮側に昂る反日感情は凄まじいものでした。

この難しい国交回復交渉のために、宗義智は…禁断の手を使うのです!

 

後編です!