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国境の島の城下町!『厳原城下町』と『金石城』を散策!【対馬壱岐旅行記】対馬編⑫

こんにちは!旅人サイファです!

対馬壱岐旅行記】より長崎県対馬の滞在最終日。

この日は対馬の中心地・厳原(いづはら)を散策します。

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ここ厳原は、国境の島の城下町。島主、宗一族が長年に渡って治めた町です。

かつては「対馬府中」と呼ばれ、古代から国府が置かれた対馬の中心地でした。

 

宗氏はここ厳原に城を築き居城としました。その城の名前は『金石城(かねいしじょう)』。元々この地にあった「金石屋形」を江戸時代に改修し作られた城です。そしてその城の麓に城下町を築いたのです。

 

厳原の町は南北に細長い町。西と東には山が迫り、その間の谷間の街道沿いに城下町が並んでいます。

北側から厳原の町に入ると、徐々に石垣造りの基礎をもつ建物が増えてきます。恐らく上級武家のお屋敷跡でしょう。

面白いことに、保健所や警察署、ハローワーク地方裁判所などの官公庁も全て石垣に覆われていること。当時の武家屋敷が並ぶ風景が、よく残されています。

 

藩校日新館
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城下町に入ると始めに目に入るのは旧対馬藩の子弟教育を担った「藩校日新館」。

素晴らしい総門が残されています。


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藩校日新館門

もと対馬藩主宗氏の中屋敷門であったが、幕末には藩校日新館に用いられた。(中略)江戸末期における大名家の格式を備えた武家屋敷門としては、本県唯一無二のものである。

日新館は、幕末時代対馬藩勤王党の拠点であったが、藩の内紛によりその多くが憤死して、痛恨の歴史を遺したことで知られている。

元々は長崎地方裁判所の門として機能していたが、裁判所改築工事に伴い解体保存していたものを復元したもののようです。

 

ふれあい処つしま
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日新館から厳原の中心部にまでやって来ました。途中、「厳原八幡神社」という素晴らしい神社にも立ち寄りましたが、そちらは次回別に記事としてまとめますね。

 

厳原の中心は大きなショッピングセンターもある、かなり大きな市街地になっています。そのショッピングセンターは、かつて朝鮮通信使が滞在した館の跡地。

その向かい側にあるのが、対馬の観光拠点『ふれあい処つしま』です。


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ここは無料の資料館が併設されており、対馬の歴史、文化、自然について分かりやすく展示がしてありました。

ツシマヤマネコの映像資料もありましたので、その動いている姿も見ることができましたよ!

 

対馬は歴史上で何度もその舞台になっていることが分かります。

対外国との軋轢をモロに受ける場所であることが、よく分かりますね。

 

金石城
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「ふれあい処つしま」から山側に入るとそこはもう城内。

江戸時代に宗氏にって作られた『金石城』です。

元々は、この地にあった金石屋形を改修し城構えとしたもの。

 

長崎の出島と並んで、鎖国体制の中でも異国貿易(朝鮮貿易)の拠点となっていた対馬

江戸時代に朝鮮通信使を出迎えていた対馬藩の居城を整えることは、対外貿易の窓口、引いては日本の体裁を整えることにも繋がる、重要な措置でした。

 

現在見られる二重櫓門は、対馬藩の象徴ともいえる建築物です。この櫓門は、平成2年に、かつての古写真や模型などに基づき木造で復元されたものです。


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金石城は中世末から近世にかけて、宗氏の居館が置かれた城である。東流する金石川に沿う高低差のある細長い平坦地に造られている。

 

この地に居館が置かれたのは16世紀のことで、発端は享楽元(1528)年に起きた一族の内紛であった。当時の居館であった池の屋形を焼失し、金石原の地に難を逃れた14代島主・宗盛賢(のちの将盛)が新たに建てたのが金石屋形である。

 

ここが体裁を整え、城となったのは、17世紀後半のことであった。将盛が屋形を築いてから130年ほどのち、第3代藩主()義真の治世において城下に大火が相次いだ。(中略)

 

義真は幕府の援助を受けながら再興を期して大規模な町の整備に取り組み、好況の倭館貿易に支えられて金石屋形の拡張と改修も行った。(中略)

 

こうして寛文9(1669)年ごろにかけて整備された屋形は金石城と称され、対馬治世の拠点となった。

 

かつて別の記事で触れましたが、豊臣秀吉の九州平定後、対馬島主・宗氏は対馬一国を安堵されると共に、肥前国の一部を飛び地領土として与えられます。

これが、現在の佐賀県鳥栖市周辺一帯。九州の交通の要衝であり、肥沃な耕地が広がるこの辺りは、その後江戸時代末まで対馬藩の領地でした。

鳥栖では、かつてから製薬業が盛んでしたが、そのルーツは対馬にあります。朝鮮からもたらされる朝鮮人参はじめとした漢方材料を、対馬から鳥栖へ運び加工して、全国各地に届けたのです。

 

ちなみに、山ばかりの対馬では、米はほとんど取れませんでした。これだけ広い面積がありながら、実質石高はわずか4500石ほどだったとか。

それを補うために、肥沃な鳥栖で収穫される米はとても需要だったでしょうね。また、鳥栖の売薬業や対馬の海産物、そして朝鮮との交易で得た収入でもって、藩財政を支えたそうです。

 

ここ金石城を拠点として対馬全土を治めた宗氏は、江戸時代を通して、単なる一地方大名としてではなく、朝鮮政府に対する外交官としての役割をも担っていました。

豊臣秀吉朝鮮出兵によって、壊滅的な打撃を受けた日朝関係。その修復のために、対馬藩主・宗氏の払った努力はいかばかりか!

朝鮮出兵の戦後処理の最中で、お互いの共存共栄のために対馬藩主・宗氏は、なんと国書偽造という大罪をおかしてまでも国交回復を実現させます。

この話は…また別の記事でまとめますね。

 

そんな、対馬という特殊な島を治めた宗氏一族。

その居城『金石城』は、対馬の顔として朝鮮通信使その他の国使を出迎える役割を果たしていたのです。

 

金石城

アクセス

厳原港より車で5分

対馬空港より車で25分

 

営業時間

24時間立ち入り自由

 

定休日

年中無休

 

入場料金

無料

 

駐車場

無料駐車場あり

 

アドレス

長崎県対馬市厳原町今屋敷670-1

0920-52-1566

 

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