こんにちは!旅人サイファです!
どちらも素晴らしい島でしたが、より印象的だったのは、対馬の歴史についてです。
対馬は、九州の北方およそ120kmのところに浮かぶ、大きな島です。
その大きさは、沖縄本島、佐渡島、奄美大島に次ぐ第4位。南北に細長くその北端と南端は80km以上離れています。
交通インフラも不充分なこともあり、中心地の「厳原」から最北端の「比田勝港」まで、路線バスですと3時間以上もかかってしまうほどの広さ!
また対馬は「国境の島」とも称される通り、その北端からは、朝鮮半島の町・釜山(プサン)の町灯りが見えるほど!その距離はおよそ49.5km。
実は、九州よりも朝鮮半島の方が近い島なのです。
かつて朝鮮半島が日本国土であった時代には、対馬北部の住民にとって最も近い都会が釜山。その釜山までふらっと映画を見に行って日帰りで帰ってくる…なんてこともあったと聞きます。
そんな対馬ですが、その昔、古代律令制度では「対馬国」として離島ながら一国としての扱いを受けていました。そして、国内には「上県郡」と「下県郡」の二郡が置かれていました。
ですが…ここが問題。
通常、律令制度の旧国名やそれに準じた郡名は、畿内(現在の京都奈良大阪)に近い側を「上」や「前」、遠い側を「下」「後」とするのが原則です。
参考
例えば北陸にあった大国「越の国」を分国した際には、都に近い現在の福井県側を「越前」、都から遠い現在の新潟県側を「越後」と名付けています。
同じように、北関東の現群馬県と栃木県も、都に近い側が「上野」、遠い側が「下野」という位置関係になっています。
だがしかし…。ただひとつ、ここ対馬ではこの法則が通用しないのです。
対馬へ至るメインルートは、筑前国博多や肥前唐津から海路で壱岐国→対馬国へのルートが最短です。このルートは島伝いに行けるために比較的安全なルートでもあります。
魏志倭人伝でも、このルートを辿って日本へ渡来しています。
このルートから考えると、本来、都に近い南側が「上県郡」、都から遠い北側が「下県郡」であるはず。
しかし、対馬ではそれが全く逆転している!
畿内から遠い北側に「上県郡」、畿内に近いはずの南側に「下県郡」が置かれているのです!!
これは、現在にもそのまま継続され、北部の旧上県郡地方は「上対馬」、南部の旧下県郡エリアは「下対馬」と呼ばれています。島内全域が「対馬市」に合併される10年ほど前までは、対馬の最北端には「上県郡上対馬町」が存在していたのです!
これ、地理と歴史を学んだ身からすると強烈な違和感を覚えるのですが…いかがでしょうか。
現代人の感覚では、地図で北を上にして見る感覚が見についているため、「北が上」「南が下」は至極真っ当です。
しかし、古代律令制時の感覚では、「都(畿内)に近い方が上」「遠い方が下」が常識でした。なぜ、対馬だけが逆転しているのか…。
現在もまだ調査を続けていますが、明確な答えは見つけられていません。
次回、これまで寄せられた説をいくつか載せてみますね!
次回、謎解き編へ続く!