旅人サイファのお出かけブログ

R3.5.15 ブログランキングサイト国内旅行ジャンル第1位獲得!旅行プランナー旅人サイファが送る『旅行に行きたくなるブログ』です!ぜひお立ち寄りください♪

【謎解き編】なぜ対馬では都から遠い北部が「上対馬」で都に近い南部が「下対馬」!?【対馬の上下逆転】

こんにちは!旅人サイファです!

 

今回は、前回問題提起しました長崎県の離島・対馬の地名「上対馬」と「下対馬」の逆転現象についての続編です。
f:id:traveler-cipher:20210827065543j:image

実は対馬滞在中も、対馬在住の方何人かに「なぜ畿内から遠い北部が上対馬で、畿内に近い南部が下対馬なのか?」を聞いて来ました。

 

しかし、現地の方も誰も明確な答えを知りません。

上記の質問を問うと「言われてみれば確かに不思議だ!」というリアクションがほとんどで、既に『そういうもの』としてインプットされており、問われるまで疑問に思わなかった…という方が多かったです。

 

そこで自宅に戻ってから、「Yahoo知恵袋」、facebookの「地理・地名系グループ」と「歴史・古代史系グループ」に質問を投げかけたところ…多様なご意見をたくさん頂くことができました!

 

今回は、頂いた諸説をいくつかの系統に分けてご紹介しますね! 

論点整理

・古来、律令制度の国名郡名は、都(畿内)に近い方が「前や上」、遠い方を「後や下」という法則にそって命名していた(※諸説あり)

・現代の対馬へのメインルートは北部九州→壱岐→南対馬のルート

魏志倭人伝でもほぼ同じルートを逆に辿って日本に渡っている

・であれば、南対馬こそ「上」であり北対馬は「下」であるはず 

・しかし現実には北対馬が「上」であり南対馬が「下」とされている

・そもそも上対馬のルーツは古代に置かれた北部の「上県郡」、下対馬のルーツは同じく南部の「下県郡

 

朝鮮半島「上」説

対馬の北方わずか50kmの位置には朝鮮半島がある。かつて朝鮮半島南部には伽耶(任那)という倭人の国家が存在した。

伽耶から海を渡った倭人の祖は、対馬壱岐→九州北部へ渡り、日本という国を作り上げた。これは、古事記日本書紀に言う「天下り」ではないか。天照大御神の居らした天の国「高天ヶ原」は、朝鮮半島を指し、ニニギノミコトが降臨した「葦原中つ国」は九州含む日本列島ではないか。

古代、対馬は別表記で対海島とも書かれている。「海の対岸」という名前は、朝鮮半島から見た命名であろう。

古代対馬に住んだのが朝鮮半島からの渡来した倭人だとすると…朝鮮半島を母なる国として、朝鮮半島に近い対馬北部を「上県」、遠い対馬南部を「下県」と名付けたのではないか。

しかしこの節の問題点は、「上」とした朝鮮半島に『都を上、遠隔地を下とした命名文化がないこと』。

「都に近い方を上」「遠い方を下」とする文化が日本特有のものだとすると…説得力に欠けますね。
f:id:traveler-cipher:20210828152240j:image

 

② 宗像沖ノ島航路説

対馬へのルートは、今でこそ博多港壱岐→南対馬→北対馬の航路が定番だが、古代は九州宗像から→沖ノ島→北対馬→南対馬へ至る航路も存在した。このルートであれば、北対馬が「上」であり南対馬は「下」で違和感は生じない。

しかしこの場合、古来の魏志倭人伝のルートでもあり、最も安全な壱岐航路を取らなかったのはなぜか?という疑問が残る。
f:id:traveler-cipher:20210828152232j:image

 

③ 地形説

律令制度の国名や郡名は、畿内に近い方が「前」遠い方を「後」とするが、「上」「下」はその限りではない。むしろ、大河の川上や地形的な坂の上を「上」とし、下流域や低地を「下」としている例も散見される。

対馬の場合、北部の「上対馬」エリアは山がちで標高が高め。

北部から南部の「下対馬」エリアに向かって車を走らせると、基本的にずっと下り坂を下るように走ることができる。

地形的な微高地である北部を「上」、低地である南部を「下」としたのであれば、一応説明はつく。

 

④ 日本歴史地名体系の説

そんな中…facebookの「地理地名専門部会」グループのO様が大変貴重なご意見を提示して下さいました。

日本歴史地名大系中の記載
上県郡かみあがたぐん
面積:三三七・六八平方キロ

上県かみあがた町・上対馬かみつしま町・峰みね町

対馬は古来より北部を上県かむつあがた、南部を下県しもつあがたと称するが、古代の上県郡は浅海あそう(浅茅湾)以北の総称であった。

近世、対馬二郡八郷を上四郷・下四郷とするために浅海の北岸にある仁位にい郷(現豊玉町)が下県郡編入されたことにより、その仁位郷と上県郡三根みね郷の境が郡境となった。』

実は、かつて朝鮮半島へ送られた「遣新羅使」という使節団は、当時対馬国上県郡」にあった対馬北東岸部に入港し、陸路で山を超えて西の漕ぎ出から浅茅湾を経て朝鮮半島を目指したという。

つまり、当時の正式ルートの対馬入港場所が「上県郡内」にある可能性が高いということを突き止めてくださいました!

※注 古代の上下郡境は浅茅湾より北だったとの説もあり

 

九州北部→壱岐→上対馬が正式ルートだとすると…北部が「上県」と名付けられたのも説得力ありますね!

そして、同じ本の中で、私が感じたのと全く同じ疑問を呈している記述があることまでもご紹介頂きました!

同じく日本歴史地名体系中に、 旅人サイファさんと全く同じ問題提起と、編者の説も載っていました。
『この北島を上県、南島を下県と定めたわけであるが、九州島とくに大宰府との距離からみた場合、この郡名の上・下は逆で、現在の下県郡のほうこそ上県とするに相応しい。しかし対馬の上県・下県は大宰府ができる以前からある。対馬北部から九州に寄らず、日本海航路で畿内に向かう場合、南島から瀬戸内航路で上京するよりも近いことから、北部が上県郡になったのであろう。』

 

重要なのが、「上県(かむつあがた)」や「下県(しもつあがた)」という名前が成立したのは、大宰府制や律令制度が成立するより前ということ!

律令制度以前からあった地名のために、国名郡名を定めるに当たってもそのままの地名を採用せざるを得なかったのかもしれません。

 

そして、この説によると「壱岐航路」でも「宗像沖ノ島航路」でもなく、近畿日本海側へ直接船で乗り付ける『日本海航路』があり、その航路を考えれば、南部よりも北部の方が畿内に近くなる…と考えられるとのこと。

 

つまり、南北に長い対馬島からは、北部から直接畿内を目指す「日本海航路」で向かうのが、畿内へ至る最も近いルートであるために、北部を「上県」南部が「下県」と名付けた…というもの。

そして古代に付けられたこの「上県」「下県」が、そのまま律令国の郡名として採用されてしまったことが、現代まで続く逆転現象の源である…という説です。

 

うーん。とても興味深い資料ですが…わざわざ安全な「壱岐航路」を放棄してまで、直接畿内に向かう「日本海航路」を採用するかな?という疑問もありますので、編者の説にはちょっと説得力が欠ける気もします。

 

いかがでしょうか。対馬の郡名に残された逆転現象の謎。様々な意見寄せられましたが皆さんは、どの説が有力だと思いますか?

私は①+④の複合案が説得力ありそうだな…と思いました。

  • 朝鮮半島側を上として「上県」「下県」という地名が誕生
  • その後、律令制度が成立した際に、既に付けられていた「上県」「下県」をそのまま採用せざるを得なかった

 

しかし…同じO様から新たな謎も提示されてしまいました。それは…これ。

新たな謎

ちなみに、郡名は北が上県、南が下県ですが、島の名前は北が下ノ島、南が上ノ島なのはご存じでしたか?私はこれ(古事類苑 地部)見つけるまで知りませんでした。


f:id:traveler-cipher:20210827063413j:image

以下現代語訳

対馬国

対馬国はツシマノクニと言う。西海道に属し、壱岐島の西北約12里余りに在って、殆ど我が国と朝鮮との中間に介している。その地形は、中央で分かれ二部となる。

その南部を上ノ島(下県郡)と称し、周囲はおよそ50里あまり。その北部を下ノ島(上県郡)と称し、周囲およそ135里あまりある。この国は、古い国府下県郡に置き、下県上県の二郡を所管し、延喜の律令制度では下国に列している。

現在、長崎県によって治められている。

古事類苑は、明治時代に作られた官製の百科事典とのことです。

 

その公的な書の中に…

上県郡」のある対馬北部を『下ノ島』と言い、「下県郡」のある対馬南部を『上ノ島』と言う…

との記載があるようなのです!なんじゃそりゃ!?


f:id:traveler-cipher:20210827065239j:image

つまりこう言うこと!

対馬を南北2つの島とした場合、

という、更なる逆転現象が起こっている!うわあ!もうワケが分からん!

以後、調査続行しますね!

 

前回です