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西と東の本願寺 世界遺産は一方だけ!その対立は織田信長まで遡る!

こんにちは!旅人サイファです!

今回は京都駅からすぐ近くにあるお寺のお話。
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京都駅の北方に東西に並ぶ大きなお寺が、西と東の本願寺です。

マップを見ても分かるように、JR京都駅から一番近い寺院と言っても良いでしょう。


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なぜこんなすぐ近くに、同じ本願寺というお寺が2つ並んでいるのか?

皆さん不思議に思ったことはありませんか?

 

本願寺といえば、歴史好きの方は織田信長との抗争を思い浮かべると思います。

実は、今回取り上げるテーマ『本願寺はなぜ東西2つに分かれているのか?』という疑問点も、織田信長時代に根を発しているんです。

 

現在、大阪城天守閣が建つ大阪上町台地。そこは浄土真宗本願寺(一向宗)の敷地でした。当時の本願寺は、日本最大の宗教勢力。

布教の天才とも言われる法主蓮如上人によって、全国的に拡大している時期でした。

 

京都を治め、大阪(当時は大坂)に進出しようとした織田信長でしたが、かの地を支配していた本願寺と利害が対立。

やがて、足かけ10年にも及ぶ激烈な戦いに突入することになります。

 

1580年、ついに降伏し石山の地を明け渡した本願寺でしたが、この時既に東西分裂の火種は燻っていました。

当時の法主蓮如上人の子孫・顕如上人(けんにょ- )。

その顕如が石山の地を明け渡し退去した後も、抵抗を続ける勢力がありました。それは、顕如上人の長男・教如率いる強硬派。

 

教如は、本願寺内に残り頑強な抵抗を続けます。

しかし、顕如率いる穏健派の勢力を欠いたままでは、まともな抵抗はままならず…結局教如率いる強硬派も石山の地から退去することになります。

この穏健派(顕如と後継者である三男准如)と強硬派(教如)の方針の違いこそが、現代まで続く東西本願寺の分裂の根源なのです。

 

顕如から続く、正統な後継者を自認しているのが『西本願寺

一方、教如率いる強硬派が独立して建てたのが『東本願寺

 

一説には、本願寺の力を恐れた徳川家康が、その力を削ぐために強硬派による分裂を支援、東本願寺建立に力を貸したとも言われています。

こうして東西に分裂した2つの本願寺

 

浄土真宗本願寺派西本願寺=穏健派=朝廷派

 

浄土真宗大谷派東本願寺=強硬派=幕府派

以来、西は朝廷寄り、東は江戸幕府寄りとしてその対立は続いていきます。

現在、西本願寺はその本堂伽藍を含めてユネスコ世界遺産に登録されています。

 

しかし、東本願寺世界遺産に登録されていません。

その理由は東本願寺は江戸時代に何度も火災にあっており、当時の建築物がほとんど残っていないから…』と言われています。

 

しかし、その江戸時代の火災も…一説には対立する西本願寺門徒による謀略とも?

 

現在まで続く東西本願寺の対立。

それは、東西各派それぞれが組織した大学にも及んでいます。

 

西本願寺龍谷大学

東本願寺大谷大学

 

また東京本山も東西ふたつ。

西本願寺築地本願寺

東本願寺→浅草本願寺

 

同じ始祖(親鸞)を持つ東西二つの本願寺

本来であれば互いに手を携え共に宗派の発展を目指せば良いものを…。やはり近いもの同士こそ反発しあうという自然の摂理なのでしょうかね?

 

今回は東西二つの本山に別れた、浄土真宗本願寺についてのお話でした。

 

 

ちなみに…冒頭に出した観光マップを見て、何か感じることはありませんか?
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このマップでも微かにそうですが、京都の観光マップの中には西本願寺は載っていても東本願寺は載っていないことがあるのです!

 

こういうマップを見ると…やはり京都は西本願寺寄りなんだなと感じるところですね。