こんにちは!旅人サイファです。
いやあ…麒麟ロスが止まりません。
本日も『麒麟がくる』の後日談記事をお届けします。
今回は、周辺人物のその後のお話。
本能寺の変の後、登場人物たちはどのように動き、どのように死んでいったか…をまとめてみました。
主人公明智光秀の幼なじみであり、織田信長の正妻として嫁いだ帰蝶さま(濃姫)。
実はこの婚姻後の帰蝶の消息は詳しく分かっていません。
結婚後すぐに亡くなった、本能寺で信長と共に死んだなど…諸説言われています。
本能寺の変の際に安土城にいて、留守を預かっていた蒲生賢秀によって逃がされたという説もあります。
また、別説では織田信長の次男、織田信雄の家中に『あつち(安土)殿』という記載があり、これが帰蝶さまを指しているのではないか…とも言われています。
もしも焼け落ちた本能寺にいたとしたら…光秀はさらに苦悩を大きくしたでしょうね。
昨日の記事でも書きましたが、明智光秀の唯一無二の盟友であった細川藤孝は、本能寺の変後の光秀には与せず…剃髪し仏門に入ります。
形式上、息子の忠興に家督を譲ったこととし、自国に閉じ籠るのです。
その後は、豊臣秀吉、徳川家康と常に勝ち馬に乗り続け、関ヶ原後の1610年まで生きます。
細川藤孝と共に織田家明智軍団の副将格ともいえるポジションにいた筒井順慶。
本能寺の変後、再三にわたる光秀からの勧誘にもはっきりと態度を示さず、秀吉からの誘いにも様子見をする…という日和見な態度を取ります。
光秀も順慶へプレッシャーをかけるため、大和との国境にある『洞が峠』まで出陣しましたが、ついに態度を鮮明にしませんでした。
山崎の戦いが終わった後になってから秀吉側に参戦し、その行動の遅さを叱責されています。
変後は、大和の領地は安堵されますが1584年に早世。
筒井家を継いだ定次はその後伊賀上野に領地を変えられますが騒動を起こし改易切腹。
筒井家は絶家しています。
足利幕府最後の将軍となった義昭は、物語中でも滞在していた備後国鞆にとどまり、幕府再興の望みをかけて毛利の客分として過ごしていたようです。
しかし、秀吉の天下が定まると、これ以上の抵抗は無駄と悟ったのか和解。
山城国槇島一万石の大名として晩年を送ります。
1588年に正式に将軍辞任、1597年に大坂で死去。
結局…将軍としての存在感を示せぬまま生涯を終えています。
敗戦の報を受けて、本城である坂本城へ撤退します。
この際、追っ手の追撃を逃れるために、琵琶湖の真ん中を馬に乗ったまま渡りきったという伝説が残されています。
坂本城に入城した後は、敗戦処理を整え城にあった宝物を包囲軍に差し出し、城に火を付け自刃したと伝わります。
藤田伝五
明智荘の地侍時代からの家臣藤田伝五は、明智五宿老のひとりとも伝わる、光秀股肱の臣。
本能寺直後、大和の筒井順慶の元に派遣されるが、説得しきれず帰還。
形勢悪化の一因となった。
体中に六ケ所の負傷を受けつつ奮戦。
淀まで退却するが、戦況悪化を受け自刃して果てたと言われています。
元は稲葉一鉄の家臣であったが、冷遇され出奔。その後明智光秀配下となります。明智家中では筆頭家老となり、丹波平定後は黒井城主として一万石を与えられています。
本能寺の変、山崎の戦いでは、共に明智軍の先鋒として奮戦します。
しかし、山崎の戦いでの敗戦後は近江堅田に逃亡するが捕らえられ、京都市中引き回しの上斬首、その生涯を終えます。
しかし…その娘「ふく」は徳川秀忠の子の乳母に抜擢、後に徳川家光となる竹千代の養育係となります。
明智光秀ゆかりの人間の中では…最高クラスの出世を果たしたのがこの「ふく」。
まさか、反逆者の娘から将軍の乳母にまで登り詰めるとは、誰も予想していなかったでしょう。ある意味、裏側から天下を取りましたね。
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