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土佐のエネルギー源は『殿様のヘタレ根性』にあった!? 前編

こんにちは!旅人サイファです!

今回は明治維新を成し遂げた長州、薩摩に並ぶ功労者、土佐藩のお話。
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長州の毛利家、薩摩の島津家。

共に1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属し、徳川方と敵対した家です。

いわば…関ヶ原の負け組。

しかも、関ヶ原では毛利家も島津家も本戦には積極的に介入せずに戦場を後にしている…という点も共通しています。

両家は、江戸時代を通じて、徳川幕府から仮想敵国として厳しい目で見られ続けます。

それではもうひとつ。

薩摩と長州を結んだ土佐藩はどのようなルーツがあるか?

そこには面白い逸話が隠されています。

戦国時代から関ヶ原の戦いまで、土佐は長宗我部家という大名によって治められていました。

豊臣秀吉に征伐されるまで、四国は長宗我部元親によってほぼ統一されていました。

豊臣秀吉の四国介入によって、元の土佐一国に封じ込められた長宗我部家。

関ヶ原の戦いでは西軍に属し、毛利家と同じく南宮山へ布陣します。

しかし、先頭に陣取る毛利家が動かないために長宗我部軍も動くに動けず。

結局こちらも一弓も引かずに戦場を後にしています。

★毛利家の話参照

ですが…

関ヶ原の戦後、毛利や島津とは異なり長宗我部家は全て領地没収され大名の地位を失ってしまいます。

(戦後の外交処理を誤ったため…とも言われています)

長宗我部という大名を失った土佐国は、戦後山内一豊という武将へ与えられます。

つまり土佐は山内家という占領軍の支配下に入れられるのです。

この山内一豊という殿様の存在が、やがて明治維新で爆発する土佐のエネルギー源になるとは…歴史の皮肉。

後編へつづきます。