年末年始の旅行で数年ぶりに関ヶ原を訪れました。
歴史ファン戦国ファンにはたまらない、数多の英傑が一同に介した、まさに歴史の舞台です。
はじめは旅行記に書こうと思っていたのですが…あまりにもアツく長くなったので個別で記事にすることにしました。
1598年。
豊臣秀吉の死後、天下は動乱の匂いがくすぶり始めます。
1600年9月15日。
天下を狙う徳川家康率いる東軍と、豊臣の世を守ろうとする石田三成率いる西軍は美濃国関ヶ原において激突します。
この関ヶ原の戦いで最も印象に残る動きをしたのが、戦場のはるか彼方、南国鹿児島から参戦した島津軍でした。その軍勢はおよそ2000。
実はこの島津軍。関ヶ原の戦いのおりに特異な動きをします。
なんと。
銃火飛び交う戦場の真っ只中で…
…何もしないんです。
西軍のど真ん中に陣を張りながら、東軍に銃を撃つ訳でもなく。
かといって裏切って西軍を攻撃する訳でもなく。
不気味に沈黙を守ります。
これは数日前、西軍総大将・石田三成に夜討ちを進言して無下に断られたから…と言われますが。
要はヘソを曲げた。
こんな戦に協力してやるもんか、と。
関ヶ原の戦い。序盤は西軍優勢でした。
攻めこむ東軍を迎え打ち、さらに押し返す。
大将石田三成は、ここぞ!と全軍に畳み掛けるように狼煙をあげます。
が。
島津軍は動かない。
石田三成は使者を島津軍に送りますが、無言で使者に銃を撃ちかけ追い返すことまでしています。
これは、石田からの使者が馬上から指示を出す…という無礼を働いたからとも言われています。
※徳川本陣を挟み撃ちにする位置に陣取っていた広島の毛利軍も土佐の長曽我部軍も動いていません←これはまた別のお話。
やがて…小早川秀秋の寝返りをきっかけに西軍は総崩れ。
奮戦していた石田三成軍、宇喜多秀家軍、小西行長軍、大谷吉継軍。
全てが壊走を始めます。
気づけば戦場に残るは島津義弘軍ただひとつ。
手柄を立てようと東軍諸部隊が島津の陣へ殺到します。
(画面中央に東軍緒隊。画面右手の島津軍に襲いかかる。)
その時…初めて島津軍が動きます。
前面は殺到する東軍の部隊。その数八万。
対する島津軍はわずか二千程度。
当然、後方へ撤退して体勢を整えようとしますよね?
後方に逃げる島津軍。
それを笠にかかったように追う東軍!
そうなるであろうと誰もが思ったその時。
なんと。
島津軍は一丸となって正面に突撃を開始したのです!!
不意を突かれた東軍諸部隊は思わず腰が引けます。
人間『よし!勝った!』と調子に乗って前のめりになっている際に反撃を食らうと呆気に取られます。
島津軍はそれを突いた。
そしてそのまま東軍諸部隊を打ち破り、前線の裏側にまで突き抜けます。
そこにいるのは丸裸の徳川家康の本陣!
『ヤバい!!やられる!』
徳川の親衛隊も身構えます。
が。
島津軍は徳川本陣の鼻先を素通り。
そのままさらに南下して戦場から離脱しようとします。
身を翻して体勢を整えた東軍諸隊は改めて追撃戦を仕掛けます。
その時島津軍は何をしたか。
大将を逃がすため、先頭に島津義弘を押し立て南下。
後方に数十人ずつ残して激しい銃撃を仕掛けます。
つまり、一回の戦闘ごとに数十ずつ兵を置き去りにし、彼らを犠牲にして大将を逃がすという戦法を取ったのです。
その島津の抵抗の激しさは、追撃隊の将、徳川軍の井伊直政に鉄砲傷を負わせたということからも窺えます。
ちなみにこの井伊直政。この時の傷が原因で徳川の天下を見ることなく亡くなります。
島津軍は、大将義弘と副将豊久(義弘の甥)に率いられていました。
最後の最後。副将の豊久までもが置き去り隊として戦場に残りこの地で戦死しています。
今の関ヶ原インターの近く。烏頭坂のあたりに島津豊久の供養塔が残されています。
この副将・島津豊久の奮戦のせいで東軍は追撃を中止。
大将義弘は数ヵ月後、無事に鹿児島へ帰ることができています。
なお、無事に鹿児島へ戻れたのは二千いた兵のうちわずか八十数名とも言われています。
損傷率9割を越える、まさに死闘の末の帰還でした。
徳川家康に『島津恐るべし』の強烈な印象を与えた影響もあるのでしょう。
関ヶ原で西軍についたにも関わらず、島津本国の薩摩と大隅の領土は維持されました。
しかし島津家では『チェスト関ヶ原!』と関ヶ原での苦難を忘れるな!代々と伝え継ぎます。
明治維新の原動力となった薩摩藩島津と長洲藩毛利家、そして土佐藩の郷士(長曽我部遺臣)はみな関ヶ原で西軍に属していたのは偶然ではありません。