「旧越後国」から「近代新潟県」へ!昭和6年は新潟で革命が起きた年!
《昭和6年は新潟の歴史を語るには欠かせない…革命的な年!》
筆者紹介
こちらは本業の傍ら全国47都道府県を旅して年間平均40泊!旅行プランナー/ブロガー「旅人サイファ」が執筆運営しております。
旅人サイファ実績
・スキルマーケット「ココナラ」にて旅行お出かけカテゴリ売上実績No.1
・旅行お出かけメディア「RETRIP」パートナーライター
・スマートニュース/Yahoo!ニュースほかメディア掲載実績多多数
・「にほんブログ村」国内旅行カテゴリPVランキング1位を記録
こちらは【歴史コラム】シリーズからの記事をお届けしています。
北陸道の越後国から「新潟県」へ
日本海に面する新潟県。県庁所在地の新潟市は日本海側最大の人口を有しています。
この新潟県…実はちょっと難しい県なんです。
そもそも…新潟県って「なに地方」だと思いますか?
教科書的には「中部地方」
天気予報では「甲信越地方」
歴史的には「北陸地方」
電力会社的には「東北地方」
その扱いは…実に様々なんですよね。
新潟県はもともと、旧越後国と旧佐度国というふたつの令制国から作られた県です。
そもそも歴史的にみれば…この越後国も佐度国も「北陸道」というグループのひとつでした。
かつて日本海側には古代「越の国」という大国があり、それを分割してできたのが越前、加賀、能登、越中、越後といった国々です。現在の福井県、石川県、富山県…北陸地方と新潟県を合わせたエリアですね。
大部分が旧越後国である新潟県も…本来は「北陸地方」の一員として、富山県や石川県などと強い連携が取られている…ハズです。
しかし。
現在の新潟県は、北陸地方の3県とはあまり強い連携が取られていません。
近年の新潟県は、北陸3県とよりも…関東地方や東京との繋がりばかりに注力しているようにも見えます。
しかし…この東京との連携が強化されたのは、昭和初期から。あくまでも…近代に入ってからのことなんですよね。
本来、江戸時代まで「北陸道の越後国」であったハズの新潟県が「関東甲信越地方の新潟県」になったのは…長い歴史の中でも、実はごく最近のことなんです。
キーワードは…《昭和6年》です。
大河津分水の開通
現在は、日本有数の米所として地位を確立している新潟県。特に中部の魚沼地方の米は品質も最高峰で、国内でもトップレベルの人気を誇るブランド米として知られています。
しかし…この「新潟県の米」は、かつて不味い米の代名詞だったってご存じでしたか?
特に…新潟平野で収穫される米は品質が低く、あの何でも食べる鳥ですらまたいで避けるという「鳥またぎの米」として有名でした。
当時の新潟米の品質の悪さは…ひとえに、信濃川という日本一の大河の治水の悪さにありました。
かつての新潟平野は、信濃川の反乱が頻発する洪水地帯。たびたび洪水が発生し、一度水が溢れると数ヶ月水浸し…という環境がずっと続いていたのです。
そのため、当時の稲作は腰の高さまでの泥に浸かりながら湿田式。このような環境では、品質の良い米は収穫できません。
現在見られるような…美田広がる新潟平野の風景は、信濃川の上流で、多すぎる水を海へと流す放水路が完成してからのことなのです!
この放水路は「大河津分水路」!この放水路が完成・開通したのが…《昭和6年》のこと。この放水路のおかげで信濃川の水量をコントロールすることが可能になり、新潟平野では質の良い米が収穫できるようになりました。
現在見られる新潟平野の大水田地帯が生まれたのは、この放水路の完成後!ごく最近のことなんです!
【新潟】鳥すらまたぐ不味い米だった!?『大河津分水路』は新潟を変えた土木事業! - 旅人サイファのお出かけブログ
※詳しくはこちらから
上越線開通
現在でこそ、東京と新潟の間には上越新幹線が走り、最短90分ほどで結ばれるようになりました。
しかし…かつて関東地方(群馬県)と新潟県の間には、鉄道はおろか自動車道路すら満足にない時代が長く続いていたんです。
急峻な三国山脈が関東地方と新潟県の間に聳えたっているがために…この山脈を越えて行き来するルートは、長らく建設すらできなかったのです。
新潟県と関東地方を直通する電車が開通したのは、昭和初期のこと。三国山脈を貫く「清水トンネル」が貫通したことではじめて、関東地方へ直接抜けられるようになったのです。
それ以前、鉄道で新潟県から東京へ出るためには…東の福島県会津地方を通り抜けるルート(磐越線ルート)か、西の長野県を通り抜けるルート(信越本線ルート)しかありませんでした。いずれも、その所要時間はなんと11時間以上!現在の90分とは雲泥の差ですよね。
つまり…谷川岳直下を貫く上越線が開通するまでは、新潟県民が関東地方に出てくるのは大変な困難が立ちはだかっていたんです!
この新潟県民の悲願であった上越線が開通し、新潟と関東地方が直結したのは…実はこれも《昭和6年》のことなんです。
ちなみに、自動車道の開通はさらに遅く、新潟と関東地方を結ぶ国道17号を自動車で通年通過できるようになったのは昭和32年のことです。
今でこそ「関東甲信越」の一員として天気予報でも一緒に扱われる新潟県と関東地方ですが…この扱いに変わったのも、上越線や国道17号線が開通してからのこと!ごく最近のことなんですよね。
新潟県民の意識が一斉にぐるり! 昭和の黒幕・田中角栄の前と後! - 旅人サイファのお出かけブログ
※詳しくはこちら
水稲農林1号の誕生
そしてもうひとつ!忘れてはいけないのが、新潟を代表する産業である…米です。
新潟のブランド米といえば…やはり「コシヒカリ」ですよね。
現代でこそ新潟の米は品質が高く、超高級ブランド米として有名ですが…それは「大河津分水路」によって信濃川の水量コントロールができるようになって以後のことです。
ですがもうひとつ重要な要素があるんです。
それが…寒さに強い品種の開発でした。
もともと稲作というのは、中国江南地方という、亜熱帯地方で始められた耕作です。北日本のような高緯度寒冷地では、そもそも栽培に向かない作物なのです。
1931年(昭和6年)、新潟県農事試験場で並河成資・鉢蝋清香により育成された。寒冷地用水稲であり、極早生種で食味もよく多収量品種であった。耐冷性を持つことで1934年(昭和9年)の東北地方の冷害での被害が少なかったほか、多収性を持つことで第二次世界大戦中・戦後の食糧生産に貢献した。このことにより、多くの人を飢餓や栄養失調から救ったとされる。
耐冷性を持つこの品種は、いわば「コシヒカリの親」!後にコシヒカリらを生み出す祖先種なんです。
このコシヒカリと言う名前も、越前、越中、越後などの国々を指す「越の国」と「光」の字から「越の国に光かがやく」ことを願って付けられたとされています。
そしてこの「水稲農林1号」品種が開発されたのも…なんと《昭和6年》のこと!
この品種が生まれなければ…コシヒカリなども存在しなかったのです!
まとめ 3つの大事業が旧越後国から新潟県へと変えた!
このように…新潟県を歴史を語るうえで、《昭和6年》という年は大きな意味を持つ出来事が重なった年なんです。
・新潟平野の安定開発
・上越線の開通
まさに…現代の新潟県を語るに欠かせない要素が出揃った年なのです。
筆者はこの《昭和6年》をもって…旧越後国から『新潟県』に脱皮したのではないか?と考えています。
それまでの新潟県は、半ば旧態依然とした「旧越後国」のまま近代へと進んできました。
昭和6年に起きたこれらの革新によって…ようやく近代県「新潟県」へと脱皮できたように思えるのです。
まさに《昭和6年》は、新潟県にとって『革命』といってもおかしくない歴史的な1年です。
筆者はこの《昭和6年》に起きた革新を…『新潟革命』と呼んでいます。