こんにちは!旅人サイファです。
予想外にたくさんの反響を頂いている「新潟県」「甲信越」の話。
今回はその第3弾として、新潟県民の意識について記事にします。
実は、筆者の父親も新潟県出身です。
父は昭和30年代に東京に出てきまして、私自身は東京の生まれです。
北陸道は、京都奈良の都から北の海沿いを進む行政区画。
今の『北陸地方』に近い存在です。北陸道は、若狭→越前→加賀→能登→越中→越後→佐渡と進み、これらの国々を管轄していました。
大和朝廷の支配が進む前は、この辺りは全て『越の国』という一大王国が栄えていました。
この『越の国』のエリアを分割して、越前、越中、越後の三国に分割して成立しています。(加賀、能登は越中から分割)
歴史的な背景を見ると、北陸地方との繋がりが深いはずなのが、越後国・現在の新潟県です。
しかし…現在の新潟県民は北陸道沿いの繋がりをあまり重視していないように思えます。それは、前回の記事にも載せたランキングからも明らか。
特に、昭和の怪物「田中角栄」以後は、この傾向が顕著です。
田中角栄が線を引いた「日本列島改造論」に従って作られた、「高速道路」と「新幹線」が全てを変えました。
元々、新潟と関東の間の交通は、山深い峠越えをしなければ行き来ができませんでした。
ここには、谷川岳を盟主とする峻険な三国山脈が横たわっているためです。
車での行き来は、現在でも関越自動車道が封鎖されてしまえば、残る交通は三国街道(国道17号線)による峠越えただ一本しか存在しなくなります。
先日目にした記事には、こんな、記述もありました。
JR上越線が全通したのは1931(昭和6)年のことです。群馬県と新潟県の境には険しい三国山脈(丹後山、谷川岳、三国山など)が立ちはだかり、これを越える清水トンネルの開通には9年あまりの歳月が流れています。
この山がどれだけ険しいかと言えば、並走する三国街道(国道17号線)が越える三国峠は、国道にもかかわらず戦後になるまで自動車が通れないほどでした。
この記事にも書いてある通り、新潟県と東京を結ぶ上越線の開通は昭和6年。
それまでは、高崎線→信越本線ルート(東京→高崎→長野→直江津)、もしくは東北線→磐越西線ルート(東京→宇都宮→郡山→新潟)のどちらかでないと行き来が出来ませんでした。その所要時間はなんと11時間以上!
谷川岳の直下を通る上越線の開通によって、ようやく新潟と東京が直線的に結ばれたのです。
このように、現代のように新潟県と東京が密接に交流できるようになったのは昭和になってから…実はごくごく最近なのです。
元来、越後(新潟県民)の人間は西を見ていました。
北陸道に沿って越中(富山県)越前(福井県)を抜けて京都との繋がりを重視していたのです。
同じく北前船による海路も西の能登や富山方面か東の山形庄内方面に目を向けていました。
関東や江戸は峻険な谷川岳の峠を越えなければたどり着けない「近くて遠い国」だったのです。
しかし「田中角栄」以降は全てがガラリと変わりました。
高速道路と新幹線により、新潟県と関東はまさに「近い国」になったのです。
この時何が起こったか…。
それまで西ばかりを向いていた新潟県民は一斉に南を向いたのです。
まるで『左向け左っ』と号令を受けたかのごとく、東京ばかりを見るようになるのです。
当然です。これまで「近くて遠い国」の東京が「本当に近い国」になったのですから!
こうして…新潟県民は西の北陸道方面へは見向きもしなくなります。
同じ越の国であった、富山県、石川県、福井県らとの交流から、東京・関東への交流へとがらりとシフトしたのです。
まさに新潟県民が一斉ぐるりと方向転換したかのように!
ここまで住民の意識を劇的に変えた事例は…古来でも稀でしょう。
まさに『インフラが世界を変える』。