この工事が新潟県を変えた!『信濃川大河津資料館』で学ぶ!
《鳥すら食べない!またいで避ける!?新潟の米は不味くて不評だった!?》
日本一の大河・信濃川と、日本一の米どころ・新潟県。実は新潟県が現在のような米どころになったのは…実は昭和になってからなんです!
筆者紹介
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こちらの記事は【残雪の新潟グルメ旅行記】よりシリーズでお届けしております。
「大河津分水路」の歴史
「大河津分水路」をご存じですか?一時は「新信濃川」とも呼ばれた人工放水路で、信濃川の中流部から分けられて日本海へ注ぐショートカットルートのことをいいます。
新潟といえば…日本一の米どころ!新潟平野を埋め尽くす広大な水田地帯は、新潟を象徴する風景として知られています。
しかし!実はこの人工放水路「大河津分水路」ができるまで…新潟は米どころではありませんでした。
なんと当時の新潟のお米は「鳥またぎの米」とも呼ばれ蔑まされていたんです…。不味すぎて鳥すらも跨いで無視する…という意味ですから、その程度の低さがよく伝わりますよね。
そんな「鳥またぎの米」しか生産できなかった新潟が、現代のように美田広がる穀倉地帯になったのは…実はこの世紀の土木事業「大河津分水路」が完成してからなんです!
最初期の一次計画から完成まで、なんと200年以上もかかった世紀の土木事業が「大河津分水路」。その果たした役割を学べるのがここ『信濃川大河津資料館』です。
『信濃川大河津資料館』の見どころ
『信濃川大河津資料館』が建つエリアは、かつて「新潟県西蒲原郡分水町」という地名でした。
現在は近隣の燕市と合併していますが、わざわざ自治体名とするほどですから…『大河津分水路』が与えた影響の大きさを物語っていますよね。
『信濃川大河津資料館』では、解説員さんによるガイドをお願いすることができます。
「大河津分水路」が作られた歴史や背景、そして苦難を極めた大工事の軌跡など…様々な観点から「大河津分水」について学ぶことができますのでおすすめです。
館内に入ると、大きなパネル展示に信濃川の流れが示されています。日本一の長さを誇るこの川は秩父山地からはじまり、長野県内を千曲川という名前で流れていきます。
北信地方や魚沼地方という豪雪地帯を抜けて水を集め、新潟県に入ると信濃川と名前を変えて新潟市で日本海へと注いでいます。その距離はなんと367km!
しかも信濃川は、日本一の流水量を誇る川でもあります。2位も同じ新潟市に河口を持つ阿賀野川。新潟市は、日本の河川水量トップ2が注ぐ「川の町」でもあるんです。
問題は、この水量でした。
新潟平野は、この信濃川と阿賀野川という大河が運んだ土砂によって作られた沖積平野です。
平野といえば聞こえは良いですが、戦前までの新潟平野は、多数の潟や湖沼が点在する低湿地帯に過ぎません。農民たちは、腰まで水につかるような深田で稲作を強いられていました。
しかもこのような深田で作られた米は質が悪く、ついばむ鳥すら無視するほどの「鳥またぎの米」として新潟の米は蔑まされていたといいます。
当時は、信濃川の豊かな水量を制御できなかったために…大雨が降ると容易に堤防は決壊。しかも低湿地帯のために水は逃げ場がなく、数ヶ月も水が引かない…という大水害が3年に1回も発生していたといいます。
一度水害が起き、その溢れた水がなかなか引かないなると…農業被害は甚大なものになります。また、不衛生で疫病が発生する原因にもなります。そのため、当時の新潟の豪農たちは、信濃川の水を制御するために放水路の建設を強く訴えました。1730年には江戸幕府へ陳情書が出されたという記録もあるようです。
明治時代になると、度重なる水害を受けてようやく政府が動きます。1870年に明治政府から正式な命令がだされ「大河津分水路」の建設工事が着工されるのです!
しかし…明治初期の段階では、この計画は難工事すぎました。進路にそびえる角田山の山裾を数kmに渡って掘削するという大工事。当時は重機もありませんから全て人力です。その途方もない工事に、次第に無力感が漂い始めるようになります。
しかもこの工事は、新潟県民すべての悲願…という訳ではありませんでした。新潟平野の治水は、農民にとっては悲願でしたが、一方で水量が減るということは、信濃川河口(新潟港)の水位が低下すること。港町に住む人々からの反対の声も聞こえて来るようになります。
結局…工事を監督していた外国人技師たちの反対意見を受けた政府は、この第一次「大河津分水路」工事を中止させてしまいます。1876年のことでした。
しかしこの工事中止が…悲劇を産みます。
1896年。そのまま放置された信濃川が…大雨を受けて決壊します。決壊地は西蒲原郡横田村、現在の燕市横田の地でした。いわゆる「横田切れ」です。
その後、周囲の堤防が次々に決壊。この時は全部で874ヵ所で堤防が決壊するという大惨事。被害面積は180万平米、床上床下浸水4万戸という途方もない水害でした。この水が引くまで、越後平野はほぼ一月に渡って浸水状態か続いたといいます。
この「横田切れ」の惨状を受けて…政府はようやく抜本的な対策を決意します。それが、一度断念した「大河津分水路」の再建設でした。
1907年から始まった第二次工事は、当時の日本の叡智と技術を総動員したものでした。日本で最初の大型機械を用いて山地を掘削し、さらに日本初の自在堰の建設など…大工事の末、1922年(大正11年)に「大河津分水路」への通水が開始されます。信濃川へ流れる水の大部分を日本海へと逃がすことができるようになったのです!
その後の工事も含めて、最終的な完成は1931年…昭和6年のことでした。現在のように新潟平野が美田に覆われるようになったのは…この後のことなのです。
ここ『信濃川大河津資料館』の4階は、周囲を見渡すことができる展望フロアになっています。
目の前には建設当初の旧洗堰。正面上流から流れてくる信濃川は、左手の信濃川本川へ必要な分だけを流し、残りは全て「大河津分水路」へと流れるようになっています。
大正11年(1922年)に通水を開始した「大河津分水路」は、2022年に通水100周年を迎えました。
それまで水害が多発していた新潟平野は、「大河津分水路」が開かれてからの100年間、一度も大規模水害を起こしていません。
この「大河津分水路」は、まさに、新潟平野の守護神!新潟を米どころにした神様の事業ともいえる存在なのです!
『信濃川大河津資料館』へのアクセス/駐車場/所要時間
『信濃川大河津資料館』は、信濃川本流と大河津分水が分岐する中州に位置しています。
公共交通機関ご利用の場合は、JR分水駅から徒歩20分ほどです。
お車の場合は、北陸自動車道の三条燕ICから20分ほど。敷地内に無料駐車場が用意されていますのでご利用ください。
見学の所要時間は30分ほど。資料が豊富ですので、じっくり見て回りたい場合は60分ほどみておくと良いでしょう。今回は無料ガイドをお願いして、およそ滞在時間は45分でした。
【残雪の新潟グルメ旅行記】3日目。新潟県を変えた土木事業『大河津分水』について学んだ後は、長岡市にあるパワースポット神社に行きました。次回は「高龍神社」の参拝レポートをお届けします。お楽しみに!
『信濃川大河津資料館』の基本情報
アクセス
北陸自動車道 三条燕ICより25分
営業時間
9:00-16:00
定休日
毎週月曜日(祝日の場合翌平日)
年末年始(12/29-1/3)
入場料金
無料
駐車場
無料駐車場あり
アドレス
0256-97-2195