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【大河ドラマコラム】NHK大河ドラマ「光る君へ」第11話『まどう心』

NHK大河ドラマ『光る君へ』コラム

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こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『光る君へ』コラムをお届けします。

 

筆者紹介

こちらは本業の傍ら全国47都道府県を旅して年間平均40泊!旅行プランナー/ブロガー「旅人サイファ」が執筆運営しております。地理・歴史へも興味が深く、各所で好評を頂いております。

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こちらは毎週日曜日にお届けする【NHK大河ドラマ『光る君へ』コラム】の記事をお届けしています。

 

 

第11話 まどう心

花山天皇退位という大事件を受けて…朝廷は大混乱に陥りました。

 

それまで、側近として権勢をほしいままにしていた藤原義懐らは、花山天皇という後ろ楯を失って失脚。そのまま花山帝と共に出家してしまい、政治の表舞台から姿を消します。

 

まひろの父・藤原為時は、花山天皇に直接仕える蔵人でしたが、完全にこの寛和の政変に巻き込まれました。一夜にしてなったクーデターの結果、藤原実資らと共に蔵人の座を失います。

 

せっかく蔵人職を得ていた為時でしたが、これでまた官職を失い、まひろ一家は路頭に迷うこととなります。

 

さて、この寛和の政変(花山天皇退位→一条天皇即位)を経て、政治の実権は藤原兼家とその一族へと完全に移りました。

 

まひろは、決死の覚悟で父・為時の復権を願いに兼家のもとへと向かいますが、あえなく突き返されてしまいます。

 

まあそもそも…女性が政治や官職に口を出すこと事態異例。間違いなく創作でしょうね。

 

さて、その藤原兼家は、新帝の外祖父という立場から「摂政」となります。摂政とは、天皇が女性や幼年の場合に、天皇に代わって政治の実務を執り行う職。つまり、事実上朝廷政治の実権を握ったと同じことです。

 

さらに兼家は、嫡男道隆を権大納言に、次男道兼を参議に、三男道長は蔵人へとそれぞれ昇進出世させます。周りの公卿たちは眉をひそめたほど、露骨な身内の昇進でしたが、これに文句を言える人物はひとりもおりませんでした。

 

こうして世は、完全に藤原兼家一族のものとなるのです。

 

一方…想いを確かめあう道長とまひろ。しかし…当時の貴族の世の中では自由恋愛での婚姻などは全く考えられない世の中。

 

道長は、まひろに妾として一緒になろうと求婚します。当時の婚姻は、家と家の家格が合わなければ正室とはなれません。

 

「北の方は無理だ」

 

北の方とは…つまり正室のこと。世をときめく藤原兼家の息子と、官職を失っている藤原為時の娘では、そもそも釣り合うものではありませんでした。

 

気持ちは通じながらも、時代に翻弄されるふたり。悲しいことに、ふたりの男女としての運命は、このままもう二度と交わらないのかも…しれません。

 

人物紹介 藤原定子

のちに紫式部となるまひろ。そのまひろが仕えた彰子のライバルとなる「藤原定子」が、いよいよ登場しましたね。

 

この女性は、道長の兄である藤原道隆の娘として生まれました。977年生まれ。14才の時に、3歳年下の一条天皇へ嫁ぎ女御となります。

 

この定子は、一条天皇からの寵愛を受け中宮となりますが、この後は完全に政治の世界に巻き込まれます。

 

関白となっていた定子の父・道隆に対して、台頭してきたのが父の弟…つまり叔父である道長です。

 

中宮として安泰の地位を得ていた定子でしたが…父の死後、その地位は暗転します。道隆の死後、政治の場は叔父の道長と定子の兄・伊周の政争となりますが…老練な道長に伊周は翻弄されます。

 

この政争の最中、兄・伊周は訴追され検非違使に捕らえられるという事件が起こります。

 

これに定子は衝撃を受けました。そして、懐妊中ながら直ちに出家してしまいます。これは道長の策略だったとも言われています。

 

定子が出家したのを受けて、中宮の位は道長の娘である彰子に奪われてしまいます。史上初、ひとりの天皇に二人の中宮立后するという一帝二后体制が誕生したのです。

 

ちなみに…彰子に仕えていた女房のひとりが「紫式部」、一方定子に仕えていた女房のひとりが「清少納言」です。彼女らのライバル関係はここに起因しています。

 

定子は、一条天皇からの寵愛は生涯通じて受けており、一男二女を授かっていますが、第二皇女を生んだ後に難産のために死去してしまいます。

 

こうして、一条帝の中宮争いは彰子の完全勝利に終わります。これは、娘を中宮に入れ、子を為す…という鉄則を貫いた藤原道長の勝利でした。

 

一条天皇中宮を奪った後、道長は次女を時代の三条天皇に、三女を後一条天皇に…と、三代に渡って娘の入内を成功させます。

 

これは「一家立三后」と呼ばれ、当時でも異例とされました。この「一家立三后」のおかげで…道長藤原氏摂関政治の最盛期を産み出すことになるのです。

 

前回です

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