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【福島】重厚な石垣残る『二本松城跡』は二本松少年隊の悲劇の地…!

東北地方屈指の名城『二本松城跡』は剛健な石垣が魅力!

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日本百名城のひとつにも数えられる東北の名城『二本松城跡』!別名「霞ヶ城」とも呼ばれる雄大な石垣と再建された城門が魅力の城跡です。

 

筆者紹介

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この記事は【秋の那須温泉&岳温泉旅行記】よりシリーズでお届けしております。


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二本松城跡』の歴史

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二本松城跡』は、15世紀前半、畠山氏の居城として築城されたといわれています。その後、伊達、蒲生、上杉、松下、加藤と城主がかわり、寛永20(1643)年に、丹羽光重が二本松藩10万7000石で入城し、以後、丹羽氏の居城として明治維新を迎えました。

 

発掘調査によつまね、各時代の遺構が見つかり、さらに近世城郭への大規模な改修が寛永4~20年の加藤氏時代に行われたことも判明しました。

 

二本松城跡』は、中世城館と近世城郭が同一箇所で営まれ、かつその変貌がよくわかる、東北地方を代表する城跡です。

二本松城』は、中世初期の城館から江戸時代末まで、一貫してこの場所に建っていたとされる珍しい城です。

 

通常、中世初期の城館は、あまり防御力を意識しない、いわゆる屋形造りのあくまで政務を取るための場所でした。しかし、戦国の世になり、周辺豪族との領地争いが激しくなってくると、地方領主は平地の屋形を捨て、より堅固な山城を築城しそちらに移ります。しかし江戸時代になると、徳川幕府の統治により戦争もなくなり、また平野部に平城を建ててそこに移る例が多く見受けられました。地方領主たちは、その都度、城を平地や山の上へと移しながら時代を超えていったのです。

 

しかし、ここ『二本松城』は、中世から、あちらこちらに移ることなく、一貫してこの場所に作られていたというから驚きです。城の建てられている白旗山という山の地形を巧みに使い、中世初期には平野部に城館を、戦国時代には山頂部に山城を、そしてまた江戸時代になると麓の平野部に平城を…とその姿を微妙に変えながらも、ずっとこの場所に城があったのです!地味にレアなお城なんですね。

 

なお、現在『二本松城』に残る石垣などの遺構は、そのほとんどが江戸時代中期に作られたもの。この城を築城したのは丹羽光重という武将です。

 

この丹羽光重という人物…あまり知られていませんが、彼の父親は丹羽長重、そして祖父は丹羽長秀という人物です。…この名前、聞いたことがある方も多いかもしれません。実は、織田信長率いる織田軍団でも五本の指に入ると言われた家老・丹羽長秀のお孫さんが、ここ『二本松城』を作った丹羽光重その人なんです。

 

この丹羽家は、関ヶ原の戦いのあと、一時期大名として追放され、流浪生活を送っていたこともありました。しかしその後、奇跡的に復活!奥州棚倉藩主を経て、最終的にここ二本松藩主として10万7000石を治める大名として明治維新を迎えています。

 

二本松城跡』へのアクセス/駐車場

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二本松城跡』は、二本松の市街地の北方に一山越えた先に位置しています。最寄り駅はJR東北本線の二本松駅。徒歩でも歩ける範囲ですが、坂道を登って降りてが必要なので、結構大変な思いをします。駅前から路線バスが出ていますので、そちらを利用されるか、バスの時間が合わなければタクシー利用がおすすめです。

 

お車の場合は、東北自動車道の二本松ICからおよそ5分ほど。城跡の周辺に無料の駐車場がありますのでそちらをご利用ください。

 

二本松城跡』の見どころ

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二本松城跡』最大の見どころは、その重厚な石垣にあります。特に城のシンボルになってるのが復元された「箕輪門」と、その周辺の高石垣です。ゆうに15mはありそうな石垣と城門は、かつての高い防御力をありありと見せてくれます。


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二本松城跡』は前述したとおり、山麓に平城部分、山頂に山城部分の遺構が残されています。山頂部が本丸ですね。山麓から山頂の本丸までは、徒歩ですと15分ほど登らないと行けませんが…山頂部の石垣もまた素晴らしいので、ぜひ足を運んで見てください!※なお、山頂部へは車で乗り入れることもできます。

 

二本松少年隊の悲劇

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「箕輪門」の前には、戦闘する若者たちのモニュメントが建てられています。彼らは、「二本松少年隊」。明治維新の動乱の中で命を散らした若者たちを偲んで作られたものです。 

 

少年部隊というと…お隣、会津若松の「白虎隊」が有名です。ここ二本松でも、戊辰戦争のおり、幾多の若者たちが祖国を守ろうと奮戦し、命を落としているんです…。


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慶応4年7月29日(1868年9月15日)、戊辰戦争において、二本松城が落城しました。奥羽越列藩同盟の一翼を担い、郷土を守るために幼い少年たちまでもが果敢に戦ったことで知られます。二本松藩二本松少年隊は、会津藩の白虎隊よりもさらに年少で、13歳の子供まで入っていたといいます。

慶応4年5月1日に奥州の要ともいうべき、白河城が新政府軍によって落とされました。列藩同盟軍や旧幕府軍は7月まで、何度も奪還を図りますが叶わず、その間に棚倉藩、磐城藩、湯長谷藩、平藩が降伏。さらに三春藩5万石が新政府軍に寝返り、新政府軍にすれば会津若松に攻め込む状況が整います。ただし、南の三春と北の福島の間には、会津藩と国境を接して、二本松藩丹羽氏10万7000石がありました。新政府軍は三春藩を先導役に、二本松藩攻撃を窺います。

当時の二本松藩の兵力は2000程度と見られますが、白河城攻防戦にも人数を出しているため、新政府軍接近を前に兵力は不足、やむなく数え17歳(満15歳)、さらに事態が切迫すると数え15歳(満13歳)の少年までの動員を認めざるを得ませんでした。もちろんそれは藩上層部が独断で決めたことではなく、戦況を知った少年たちが出陣の嘆願を重ねた結果、藩庁が苦渋の決断を下したものです。後に「二本松少年隊」と呼ばれる彼ら少年たちは、62人を数えました。

7月27日、郡山と二本松を結ぶ奥州街道上、阿武隈川西岸の本宮、糠沢付近で戦闘が起こり、二本松藩兵130人が出撃しますが、帰還僅か17人という大打撃を被ります。戦死者の中には17歳以下の少年が3人いました。一方、木村銃太郎門下を中心とする25人は、ライフル砲1門、各自に元込めミニエー銃を与えられて、城南の大壇口を守ることになります。彼らは杉木立の中に大砲を据え、畳2枚ずつを並べて胸壁としました。

二本松街道を本宮方面から北上してきた新政府軍が、大壇口に押し寄せたのは、29日早朝でした。 ところが少年たちは敵に先制の銃撃を仕掛け、あわてて近くの民家に身を隠した新政府軍を、今度は大砲で民家を粉砕して、歴戦の薩摩兵を四散させる奮戦を見せます。

しかし…衆寡敵せず。二本松城は落城します。その日、二本松藩の戦死者337人、他藩からの援軍の戦死者208人。その中に14人の少年たちも含まれます…。

二本松少年隊~戊辰戦争に散った少年たち | WEB歴史街道

※引用元

 

会津の白虎隊の悲劇は広く知られることですが、ここ二本松でも、郷里と家族たちを守るために、若い命をなげうって奮闘した者たちがいたのです…。

 

主義主張の違いとはいえ…同じ日本人同士で殺し合ったという悲しい歴史。どうにか防ぐ手段はなかったのでしょうか…。なんとも悲しい、幕末の悲劇のひとつです。

 

 

福島県中通りの要衝二本松にある古城を散策を終えて、筆者一行は秋の味覚を堪能しに福島市内へ向かいました。【秋の那須温泉&岳温泉旅行記】、次回はフルーツ王国福島らしいグルメのご紹介です!お楽しみに!

二本松城跡』の基本情報

アクセス

東北自動車道 二本松ICより5分

JR東北本線 二本松駅より路線バス/タクシー

 

営業時間

24時間散策自由

 

定休日

年中無休

 

入場料金

散策無料

 

駐車場

無料駐車場あり

 

アドレス

福島県二本松市郭内3-164-1

0243-55-5095(二本松市観光連盟)