こんにちは!旅人サイファです!
本日は月曜日!【旅人サイファの絶景100選】No.71、今回も中国地方の絶景群をお届けします。
今回ご紹介するのは山口県萩市。明治維新の立役者、長州藩の城下町です。
吉田松陰、木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文…錚々たる面々がこの萩の町から出ているのです。
以前、別の記事でもご紹介しましたが、ここ萩は江戸時代からの武家屋敷が残る素晴らしい町です。
城下町遺構としては、間違いなく日本一!なにせ町全体がほぼ「そのまま」なんです!
萩の町は、海に突き出た最も西側に本城である萩城と家老屋敷、堀切で区切られた中央エリアに上級武家屋敷、さらに東側に中級武家屋敷と順に並んでいます。
町歩きをする際は、まずは萩城跡からスタートしましょう。
毛利家36万石を治めた中心地がこちら。現在は堀と石垣のみが残りますが、かつてはここに五層の大天守閣が聳えていました。
城跡からすぐのところにある、藩の重臣たちが住んでいた家老屋敷エリアがこちら。
いや、ビックリしませんか?この風景。映画のセットじゃないんですよ!?
電柱や電線すらありません。
そこの角から「ひょいっ」と武士が出てきても何もおかしくない!江戸時代からそのままの景色が残るのは国内でもここだけ。
こちらは上級武家屋敷の並ぶエリア。城壁や門構えも立派。
この辺りになると舗装路になってきますが、それ以外は当時のまんま!
東側の中級武士の屋敷が並ぶエリアもこの通り。ここは萩の御用商家・菊屋の並びにある菊屋横丁。これらの屋敷には現在も住民が生活しています。
幕末の英雄・高杉晋作の生まれ育った家もそのまま保存されています。この門を晋作が出入りしていたと思うと…震えますね!
しかし、松下村塾は実は萩城下にはないんです。松下村塾は城外、松本川の向こう側に位置しているのです。現存している松下村塾は、わずか八畳一間の粗末な建物。
ここから、日本の未来を導く秀才たちが出たとおもうと…これもまた感慨深いですよね。
ここ萩に、こんなにも素晴らしい町並みが残ったのはなぜでしょう?
要因は、いくつか考えられます。
その① 毛利家にとって望んだ城下町ではなかったから!
関ヶ原の合戦で敵対する西軍の総大将として立った毛利家は、勝者・徳川家康の命によってそれまでの120万石の領地から36万石の1/4の領地に減らされます。
しかも、毛利家が希望した南部の要衝山口への築城は許可されず、日本海に面した萩への築城を命じられます。萩はそもそも、毛利家が望んだ城下町ではないのです。
その② 幕末、江戸幕府の力が弱まった際に捨てられたから!
幕末、江戸幕府の力が弱まったのを見た毛利家は、勝手にかつて築城を希望した山口へ居城の引っ越しを強行します。江戸幕府の支配体制が確立していた時期には考えられない暴挙。
しかしすでに江戸幕府にはそれをとがめる力もなく…結局山口移転を認めさせます。こうして、「徳川に押し付けられた町・萩」は捨てられるのです。
その③ 鉄道路線が引かれなかったから!
萩の市街地は橋本川と松本川に挟まれた中洲島に作られています。
大正14年、国鉄山陰本線が引かれた際、萩には東萩駅、萩駅、玉江駅の三駅の三駅が作られましたが、いずれも萩の中心であるの中洲島の外側。中心部に駅が作られなかったことで大規模な市街地が作られず、都市化を免れました。
その④ 明治維新の英雄たちの聖地だったから!
先に述べた通り、萩は明治維新の英雄たちの故郷。
そのため、近代化するにあたっても抑止力が働き、家老武家屋敷、英雄たちの生家などもそのまま手が付けられずに残されました。
様々な要因のおかげで、現代まで残された『萩の町並み』。
日本国内随一の城下町を見に、ぜひ萩市まで出掛けてみてください!
萩の町並み
アクセス
JR東萩駅より路線バス
入場料金
散策自由
萩城跡指月公園は220円
営業時間
散策自由
萩城跡指月公園は8:00-18:30
定休日
年中無休
アドレス
0838-25-1826(指月公園)
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