こんにちは!
先日訪れていたばかりということもあり…対馬についてのことばかり考えている旅人サイファです(笑)
とは言うものの…今回の話の本題は『そもそもなぜ対馬は長崎県に所属しているのか?』という疑問です。
こちら、長崎県の領域図を見てください。
長崎県は、九州本土の最西部の入り組んだ半島部分と、その西側に浮かぶ五島列島、北方に浮かぶ壱岐、そのさらに北方に浮かぶ対馬という島嶼群によって形作られています。
古代律令制度上では、
の3つの旧国から成り立っています。
地図で見る限り、半島部分と島嶼部からなる長崎県の県域はそれほど無理があるとは思えません。
しかし…この図を見てください。
これは、対馬への来島アクセスを示した図です。
対馬へは、船での航路か飛行機でアクセスするしかありません。
航空便
船便
この4本のアクセスルートのうち、長崎県からのアクセスはわずか1本だけ。残りの3本は全て福岡県からのアクセスなんです!
こちらの表は、対馬への来島者のアクセス経路をまとめたものです。
平成26年のデータですが、対馬への来島した人のうち、長崎空港から来島されたのはわずか14%!
なんと残りの85%以上の人は福岡空港や博多港、つまり福岡県からの来島者なんです!
つまり『対馬へ行くには福岡から行く方が便利』ということ!実はこれ、現代に限ったことでもなく古代から、対馬→壱岐→博多はゴールデンルートです。
そして、交通至便ということはつまり、経済的、文化的にも繋がりが深いということ!
そうなんです。現代では長崎県に属している対馬ですが、古来から繋がりが深いのは実は福岡県。本質的な意味では、経済的、文化的には福岡県に所属していて然るべき島なのです。
そもそも壱岐も、古来は壱岐国として独立した1つの国でした。しかし戦国時代、当時壱岐を支配していた波多氏の内乱に乗じて、九州本土から平戸城主松浦氏が攻め入り、壱岐の支配権を得ます。
それ以降は江戸時代を通じて、壱岐は平戸藩の領地として存続します。
江戸時代が終わり1871年7月、明治政府による廃藩置県が行われた際、壱岐は松浦氏の所領であったことから「平戸県」に組み込まれます。ちなみに対馬は「厳原県」として独立したひとつの県とされました。
しかし、同年11月に行われた第2次廃藩置県の結果、平戸県はまるまる、新設された「長崎県」へ組み込まれることとなり、壱岐も半自動的に「長崎県壱岐」となりました。
この時、対馬は…というと、壱岐とは異なり現在の佐賀県部分に存在した「伊万里県」に編入されます。しかし、壱岐と対馬が別県では何かと不自由との意見もあって、1872年に対馬は長崎県に編入されることになります。(※諸説あり)
つまり、壱岐が長崎県所属だったことから、それに引っ張られる形で対馬も長崎県所属になったのです!
もしも、壱岐が平戸藩の領地でなく独立した藩であったら…文化的経済的繋がりを考慮して福岡県の所属となっていたはずです。
という疑問の答えは、
いやしかし…対馬は観光業が非常に貧弱な島です。もしも対馬も壱岐も福岡県所属だったら…福岡→壱岐→対馬の観光ルートもより太く活用していただろうなと思わずにいれません。
そして、対馬の歴史を調べていてこんな事実にぶち当たりました。
なんと…対馬は一度福岡県への所属変え運動を展開していたのです!
この、福岡転県騒動と現在の対馬の観光については…また後日別の記事で触れますね!
次回です!