本日放送のNHK大河ドラマ『青天を衝け』ざっくりコラムです。
渋沢栄一の育った幕末期は、文字通り古い世の中と近代の瀬戸際の時代でした。
ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航したことにより、日本は半ば強引に新しい世界へ引きずり出されます。
もうもうと煙を吐く黒船を目の当たりにした民衆は、古い習慣や迷信よりも科学技術の確かさに心を奪われていくのです。
この世論の動揺は、時の政治にも多大な影響を及ぼします。
徳川御三家とも言われる、尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家は、そもそも徳川本家の相続の保険のために作られた家でした。
実際に第7代将軍・家継が幼くして亡くなった際には、紀伊家から吉宗が徳川本家へ入り将軍職を継いでいます。
しかしその中で、水戸徳川家だけは…少々毛色が異なっていたとも言われています。
どうやら水戸家だけは、徳川家と天皇家の融和という別の指令を受けていたとも言われているのです。
徳川家康は、やがて徳川将軍家を倒すのは天皇を擁する勢力であろうと予測していたのでしよう。
そのため、徳川家と天皇家が争うような事態になった時は…かつて関ヶ原の戦いの際の真田家のように、徳川本家を守る側(尾張家、紀伊家)と、天皇家を支える側(水戸家)とに、双方保険として二股かけていたとも言われています。
渋沢栄一が生きた時代の水戸徳川家の当主は徳川斉昭(竹中直人)。
そしてその息子徳川慶喜(草彅剛)は、一橋徳川家への養子を経て、第15代徳川将軍として、江戸幕府を終わらせる役割を担うことになります。
本来、天皇家側に立つべき水戸家の子が徳川本家を継ぎ将軍となる。それ自体、異例の事態とも言えます。
それも、ペリー艦隊が世論を動かした結果とも言えます。
彼が水戸家出身の将軍であったからこそ…大政奉還という、ひとつの時代を終わらせる判断ができたのかもしれません。
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