こんにちは。旅人サイファです。
先日、読売新聞オンラインにこんな記事が掲載されていました。
淡路島が「徳島県ではない理由」…150年前の庚午事変を紹介(読売新聞オンライン)
徳島城博物館にて、明治初期に起こった『庚午(こうご)事変』についての特別展が行われているようです。
今回の話の舞台は淡路島。
住所でいうと兵庫県淡路市、洲本市、南あわじ市の三市から成り立っています。
現在は兵庫県に属していますが…本来淡路島は四国との繋がりが強い島です。
それはその名称からも明らか。
淡路島は旧淡路国。
古代には立派に1つの国として数えられていました。
国名の由来も『阿波(徳島)への道』=『淡路』
本来は古代南海道に属する一国でした。
南海道のルートは、畿内(京都奈良)→紀伊(和歌山)→淡路→阿波(徳島)→讃岐(香川)→伊予(愛媛)・土佐(高知)。
兵庫県は通過せず、和歌山から淡路島→四国へ行くルートが本ルートでした。
さて、この淡路島。
1615年の大坂夏の陣の勲功として、阿波の領主徳島藩・蜂須賀家の領地となります。
淡路を加増された蜂須賀家は、かつて藩祖・蜂須賀小六の義兄弟であった、筆頭家老・稲田植元の子孫に淡路島の統治を委ねます。
与えられたのは、淡路洲本1万4500石という大名並みの領地!
実は、元々稲田家は家老(完全な家臣)と言うよりも、客将(客分)であったよう。
客将とは…客分として待遇される武将。主従関係を結んでおらず、家臣とは異なる。前田利家ー高山右近、細川藤孝ー松井康之などの例がある
つまり、植田家の意識としては、あくまで独立した武将であり、立場としては蜂須賀家と同等。そもそも、豊臣秀吉から独立した大名として取り上げられる話もあったようなのですが…義兄弟である蜂須賀小六に尽くすため断ったとの逸話も伝わっています。
さて、そんなこんなで、阿波の大名・蜂須賀家にしてみれば、その領内に淡路という独立国を孕んでいる状況。
両者は危ういバランスで江戸時代を乗り切っていきました…。
後編です!