こんにちは!旅人サイファです!
今回は昨日の続き!『淡路島はなぜ徳島県ではないのか?』後編をお届けします!
前編では、淡路島の歴史的立場と、阿波蜂須賀家と淡路稲田家の危うい関係について書きました。
- 本来淡路島は四国地方
- 阿波蜂須賀家と淡路稲田家は義兄弟の関係
- 稲田家は完全な家臣ではなかった(客将)
それまで、どうにか表面上の平静を保っていた阿波と淡路ですが…時代が下がり、幕末と明治維新の混乱が両者を完全に分断します。
幕末の混乱期、阿波の蜂須賀家は幕府派、淡路の稲田家は朝廷派として活動していたようです。
阿波の本藩と異なる方針を打ち出す…このことからも、淡路洲稲田家の独立意識が垣間見えますね。
やがて明治維新が成立した後の明治三年。
この争いは表面化します。
明治新政府は、四民平等の名のもと、江戸時代の士農工商の身分制廃止政策を実行します。
この時、阿波の大名の蜂須賀家は『華族(かぞく)』、蜂須賀家の家来衆は『士族(しぞく)』とされました。
一方で淡路では…?
稲田家は…あくまでも蜂須賀家の家来とみなされ『士族』、そして稲田家の家来は…家来の家来(陪臣)とされ、正式な武士とはみなされず、士族ではなく『卒族(そつぞく)』とされてしまうのです!!
本藩に逆らって朝廷派として活動したにも関わらずです!
『士族』と『卒族』では、立場も収入もとてつもない差があります。
当然、これに納得がいかない淡路稲田家の家来衆。
明治政府に対し、淡路藩の独立運動を起こします。
淡路藩が大名として認めてもらえらば…その家来衆も武士として扱ってもらえる!
そして『士族』となれるはず!と。
その動きを察知した阿波蜂須賀家の過激派は、ある行動に出ます。
なんと…淡路島の中心地、洲本に押し入り、淡路独立運動派を襲撃するのです。
同じ阿波徳島藩士が、血で血を洗う内部抗争を起こしたのです。
この時の被害者はら死亡17人、重軽傷20人、投獄監禁300人以上という凄惨なもの。
この事件を『庚午事変』と呼びます。
明治新政府はこの事件を重く見ました。
版籍奉還、中央集権化を推し進めていた矢先の事件。
ただちに調査団を派遣し事件の調査を行います。
結果…
この徳島藩士10名の切腹は、日本法制史上最後の切腹刑と言われています。
そして明治9年、遺恨の残った阿波と淡路は分割。
これは、開港地として開かれていた神戸市を擁する兵庫県の力を増す方針にも合致しました。
※兵庫県の成り立ちに関しての記事はこちら
本来、強固な結びつきのあった淡路島と四国は…こうして袂を分かつことになったのです。
淡路島を離れた稲田家とその家臣団は、北海道静内へ新たな領地を与えられ移住します。
明治4年5月。
温暖な淡路島から移住した稲田家家臣団546人は、まだ冬の寒さの残る北海道静内に上陸しました。
まだ真冬の寒空のもと、住む家さえない状況に絶望し、人々は突っ伏して静内の浜で泣き叫んだとも言われます。
現在、競走馬の町として知られる静内(現在は合併して新ひだか町)の礎は…稲田家と淡路島の人々により、開かれたのです。
現在の旧静内町の中心地には…北辺開拓の礎の碑石が残されています。
競馬場などで競走馬たちの雄姿を見るとき…その影に北海道静内の風景と、淡路島から移住した稲田家一党の奮闘に、思いを馳せて頂けると幸いです…。
前編です!