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日本一の城下町が残る町 (前編) 毛利の話

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山口県萩市

日本一の城下町が残る町です。

日本有数…とか、日本屈指…とかではありません。

全国でも断トツ!ナンバーワンの城下町遺構を残す町。

それが山口県萩市です。

萩は日本海に面した地方都市です。

① ここは江戸時代に長洲藩の居城として押し付けられた『望まぬ城』

② そして幕末の動乱期に『捨てられた都市』。

③ そして明治維新という革命を成し遂げた『英雄たちの故郷』。

ポイントはこの三点です。

この城下町を作ったのは毛利家。

広島県の山奥の小領主からのしあがり、中国地方全土を領有するまでに至った毛利元就を祖とする巨大大名です。

毛利元就とその長男隆元。

次男にして吉川家へ養子に入った元春、同じく小早川家に養子に入った隆景。

毛利本家を支える『両川』(←吉川&小早川を指す)によって中国地方の覇者となりました。

① 望まぬ城

1600年。

関ヶ原の戦いで西軍総大将として祭り上げられた毛利家。

その頃の毛利本家の当主は輝元(元就の孫)。

吉川元春小早川隆景も既にこの世を去り、吉川家は元春の子広家が継ぎ、小早川家は秀吉の甥秀秋を養子に迎えていました。

関ヶ原の戦い前、中国地方一帯の10ヵ国120万石を領有していた巨大大名・毛利家。

関ヶ原の戦い本戦では、予め東軍側と通じていた吉川広家に抑えられ、毛利勢は一弓も引かずに戦場を後にします。

(戦いの流れを決めたのも、小早川家を継いだ小早川秀秋の寝返り…というところも興味深いですね。)

徳川方との約束通り中立を守った…と自信満々の吉川広家でしたが…。 

戦後に政権を握った徳川家康から思いもよらぬ通知を受けます。

『西軍総大将の毛利本家は取り潰す。領地は没収。』

吉川広家は不戦の功がある。よって毛利領のうち周防・長門(現在の山口県)を吉川家に差し上げる。』

『!?』

毛利本家を残すため!と毛利軍を関ヶ原本戦に参戦させなかった吉川広家は言葉を失います。

これでは、毛利本家が滅亡してしまう!

吉川広家は必死に嘆願します。

『どうか!どうか撤回を!!』

『吉川家に領地は必要ありません!どうか毛利家を存続させてくだされ!』

吉川広家の必死の嘆願に折れた家康は、毛利家取り潰しを撤回します。

こうして…それまで120万石以上の領地を持っていた巨大大名・毛利家は、本州の最西端、周防・長門30数万石の中堅大名にまで転落します。

領地はかつての1/4。

そしてさらに。 

毛利家は新しい領地での居城を決めなくてはなりませんでした。

この時、新領地内で最も栄えていた『山口』に新築したいと申請しましたが…それすらも却下。

こうして、江戸幕府に指示されたのが…日本海に面した寒村『萩』。

そう。毛利家にとって萩とは。

徳川によって無理矢理に作らされた『望まぬ城』『押し付けられた都市』なのです。

※居城の選定時に毛利家から、山口とともに萩も次点希望として出していたとの説もあります。

後編はこちら!