岩手県の県都「盛岡」は戦国武将のアドバイスで作られた!
人口30万人の規模を誇る岩手県の県都『盛岡』。この町はかつては不来方という不吉な名前を持つ寒村でした。
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かつて「不来方」と呼ばれた寒村
岩手県盛岡市。現在は人口30万人ほどを抱える東北地方屈指の大都市です。中心駅である盛岡駅は、東北新幹線も停車するターミナル駅で、駅ビル「フェザン」をはじめ多くのビルやホテルが建つ町として発展しています。
この「盛岡」ですが…実は町としての歴史はそう古くないってご存知でしたか?
ここ盛岡に町が作られたのは、江戸時代初期。北東北を治めていた南部家が本拠地となる城と城下町を整備してからのことです。
元々この地は「不来方」と呼ばれていました。
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」
という有名な句も読んでいます。ここに出てくる「不来方」こそ、盛岡の本来の地名でした。
この「不来方」という地名…なかなか風情のある地名ですが、実はこれには伝説があります。
伝承によれば、かつてこの地には「羅刹」と呼ばれる鬼がいて、人里を荒らしまわっていた。このことに困っていた里人たちが、「三ツ石神社」の神に祈願したところ、鬼は神によって捕らえられた。この時、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した。これが「岩手郡」「岩手県」という地名の由来である。
また「二度と来ない」の意味で、一帯に「不来方」の名が付されたと伝えられている。
つまり「岩手県」の県名も「不来方」という地名も、鬼に由来したものなんですね。
一説には…この「鬼」は、かつて東北地方に生活していた「蝦夷」ではないか?とも言われています。
ふむ…なるほど。確かに、盛岡周辺はかつてヤマト朝廷と蝦夷勢力圏の境界線だったこともあります。
盛岡市街地の少し南側には「志波城」という、ヤマト朝廷の前線基地がありました。
これは、蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)を下した後に、征夷大将軍・坂上田村麻呂が造営したものです。
そう考えると…蝦夷を降参させて追い払い、「もう二度とこの地には来ない」と約束させた地を「不来方」と名付けたのかもしれませんね。
人が来ない町「不来方」から盛岡へ
そんな不来方の地ですが、その後、順調に発展し、現代まで栄え続けた…という訳ではありません。
実は、ここ「不来方」の地は、中世にはほぼ忘れられ、地方土豪の治める小盆地に過ぎませんでした。
中世に東北地方の大部分(現在の岩手県中北部~青森県まで)を治めていた南部氏も、本拠地は現在の八戸市や三戸町あたりに基盤を置いており、不来方は「南部領のうちの小さな村」に過ぎなかったのです。まさにその名の通り「人が来ない町」だったのです。
ここ不来方に転機が訪れたのは、戦国時代も終わろうという1591年のことでした。
時代は豊臣秀吉の天下統一事業が完成する寸前です。
関東に君臨していた小田原北条氏を下した豊臣秀吉は、その足で奥羽(現在の東北地方)へも進出し在地の大名たちの領域を定めました。
しかし、南部氏の一族である、九戸政実が秀吉の裁定に不満を持ち反旗を翻します。いわゆる「九戸政実の乱」で、これが戦国時代(狭義)最後の合戦であったともいわれています。
この九戸政実の乱の平定には、豊臣配下の武将たちも多く参戦していました。
この時に…奥羽の地を見聞していた武将らから、当時の当主・南部信直にあるアドバイスを授けるのです。
このアドバイスした武将とは、織田信長配下の猛将として知られていた「蒲生氏郷」とも秀吉の奉行であった「浅野長政」と言われています。あるいは酒の席などで同時にアドバイスを受けたのかもしれません。
彼らのアドバイスとは…
というものでした。
この蒲生氏郷、浅野長政らのアドバイスこそが…やがて東北屈指の大都市となる「盛岡」誕生のきっかけだったのです。
30万都市!盛える町「盛岡」へ!
九戸政実の乱を平定した南部信直は、蒲生浅野らのアドバイスを受け入れます。そして家臣らに命じて、不来方の地への築城に取りかかるのです。
その後、豊臣秀吉の死去や関ヶ原の戦い、江戸幕府開府などで時代が混乱していたこともあり、不来方の城は江戸時代初期(1610年頃)にようやく完成します。
父・信直の死後、跡を継いでいた南部利直は、不来方の新城に入ると、町を改名させます。
それが…「盛り上がり栄える岡」という願いを込めて付けられた『盛岡』という地名!これまでの「人が来ない町」…『不来方』という不吉な名称を嫌ったためともいわれています。
南部利直の入城以後、江戸時代を通して、この地は『盛岡』と呼ばれる豊かな城下町となりました。
現在『盛岡市』は、岩手県の県都として、人口30万人規模の都市になっています。これは、東北地方としては4~5番目の人口を誇っています。(秋田市と拮抗)
現在の盛岡市の繁栄は…中央から派遣された戦国武将が実際に現地を訪れたこと。そして的確なアドバイスを送り、南部氏の当主もそれを即座に受け入れたことにあります。