NHK大河ドラマ『光る君へ』コラム
こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『光る君へ』コラムをお届けします。
筆者紹介
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第9話 遠くの国
右大臣・藤原兼家の邸宅「東三条殿」へ忍び込んだ盗賊。その正体は、河原で散楽を興行していた河原者たち。その中には、先日共に打毬にを打ち込んだ直秀の姿もありました。
直秀らを捕らえた藤原道長は、彼らを検非違使へと引き渡します。このまま見逃して解き放つこともできたのでしょうが…家人たちの手前、筋の通らない扱いはしかねたのでしょう。
検非違使とは?
検非違使とは、現代の警察組織のようなもの。本来の令制には存在しない令外官の役職です。
検非違使とは、非違(違法)を検する使者を意味しています。実は平安時代は、その最初期に桓武天皇によって軍団が廃止されています。そのために、朝廷法を取り締まる軍事力を失っていました。
取り締まり力が低下すると…当然のことながら治安は悪化します。その悪化した治安を維持するために新たに組織されたのが「検非違使」なのです。
鳥辺野とは?
直秀たちは、道長の賄賂も通らずに、鳥辺野へと連行され…そこで処刑されてしまいます。
鳥辺野とは、京都東山に実際に存在する地名です。地図でいうと…清水寺のすぐ南側。現在、大谷墓地がある辺りです。当時の感覚でいえば、京都のはじっこのような場所ですね。
当時の葬儀は、貴族はいざ知らず、庶民は風葬や鳥葬が当たり前でした。
ここ鳥辺野も、そんな死体を遺棄する場だったようです。ちなみに、京都では「野」は風葬地だったとも言われ、東の「鳥辺野」、西の「化野」、北の「蓮台野」は、三大葬地だったとされています。
ここ鳥辺野では、藤原道長その人もここで荼毘に付されていますし、源氏物語内では桐壺や葵の上、夕顔もここ鳥辺野で葬送されています。
なお、鳥辺野からさらに山を登った先には「阿弥陀ヶ峰」、豊臣秀吉の墓所もあったりします。
貴族と穢れ
当時の貴族は、極端に死穢を恐れました。桓武天皇が軍団を廃止したのも、この死穢を恐れたからだともいう説があります。
今作中で…道長は処刑された散楽一味を素手で埋葬していましたが…当時の感覚では考えにくい行為です。
死にまつわるものとはできるだけ距離を取るのが、当時の貴族の感覚。同じ空間にいただけでも汚染される考えられていました。
縁のあった人々とはいえ…貴族である道長が素手で死体を埋葬するなど、到底考えられない事態です。
なお、延喜式では
- 人の死穢 30日
- 産穢 7日
- 家畜の穢 5日
…と謹慎期間が決められているほどでした。
直秀とは何だったのか?
最後の最後まで…蘇ってくるかと思っていましたが、どうやら直秀はここで退場のようです。
結局…彼は何だったのでしょう?
歴史上には伝わってもいない庶民の代表としてのオリジナルキャラクターだったのでしょうが…まさか序盤での退場となりました。
筆者はこの時代や「源氏物語」にはあまり詳しくありません。
もしかしたら?いずれ、彼のような存在が源氏物語で登場するのかもしれません。また、彼らのような庶民との交流が、まひろの創作活動にゆくゆく影響を及ぼすのかもしれません。
ですが…ここまで存在感のあったキャラクターを、こんな序盤で退場させるか?何か意味があるように思えてなりません。
ともかく…今作は、例年の大河ドラマと同じように見るものではなさそうです。
そもそもが、資料に乏しい紫式部を主役に据えているために、その大部分を創作で補わなければストーリーが進みません。
「藤原道長と紫式部をモチーフにしたファンタジー」として楽しむのがよろしいかと思います。
時代は寛和の変へ
さて、政治の表舞台は…藤原兼家の主導による「寛和の変」が目前に迫っています。
これは、花山天皇を廃位へと導く兼家のクーデター。花山天皇が退けば、次の天皇位は兼家の娘が産んだ皇子。つまり、兼家は外祖父になれるのです。後の藤原道長の天下へと繋がる大きな政変ですが…今作「光る君へ」の序盤の山場とも言える事件です。
果たして…どのような形でこの事件を描くのか?キーマンは…兼家の次男・道兼だとされていますが?
人物紹介 藤原惟規(高杉真宙)
今作中ではあまり目立つ存在でありませんが、今回、大学へと進学する様子が描かれました。
彼は一条天皇期に兵部丞や式部丞を歴任する傍ら、蔵人も兼ねていた時期もあったようです。
学問肌の父や姉に似て文才を示し、勅撰歌人として、後拾遺和歌集などに作品が納められています。
後に彼は、越後守に任じられた父と共に任地へ赴きますが当地で死去しています。
彼の玄孫には、平清盛の腹心として権大納言まで出世した藤原邦綱がいます。下級貴族ながらも、子孫は出世しているんですね。