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【地理コラム】『鹿角地方』はなぜ秋田県?本来は陸奥国盛岡藩領!

『鹿角地方』はなぜ秋田県所属なのか?本来は陸奥国出羽国

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秋田県『鹿角地方』。秋田県の東北端に位置し、現在は鹿角市および鹿角郡小坂町に跨がるエリアです。

 

この地は、古代から街道が集まる交通の要衝で、現在でも秋田県/岩手県/青森県の三県境に位置しており、現在は秋田県に所属していますが、本来は出羽国ではなく陸奥国の範囲に含まれていた場所なんです!

 

筆者紹介

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こちらは【地理コラム】からの記事をお届けしています。

 

 

秋田県鹿角地方という場所

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秋田県鹿角地方。秋田県の東北部に位置するエリアで、青森県岩手県との三県のちょうど中央付近に位置しています。

 

現在は鹿角市が市制を敷いているために郡から離脱しており、北部の小坂町だけが鹿角郡を冠しています。本来はこの鹿角市小坂町を合わせたエリアが「鹿角郡」のエリア。現在は「鹿角地方」と呼ばれる場所になります。

 

この鹿角地方は、北部は十和田湖、南部は八幡平。東は岩手県との県境を抱え、西側には大館市があるあたりですね。

 

実はこの鹿角地方…古くから歴史に翻弄されてきた土地なんです。

 

鹿角地方の歴史

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現在の東北地方は、江戸時代まで陸奥国出羽国という2つの巨大な国が建てられていました。

 

陸奥国

現在の青森県岩手県宮城県福島県に相当

主に東北地方太平洋側に建てられていた令制国

 

出羽国

現在の秋田県山形県に相当

主に東北地方日本海側に建てられていた令制国

 

それでは…?今回取り上げている「鹿角地方」はどちらに入ると思いますか?

 

え?秋田県なんだから当然出羽国でしょ?

 

…と!思いますよね?

 

実はここ「鹿角地方」は、そもそも「陸奥国鹿角郡」!秋田県側の出羽国とは別の陸奥国に所属していたのです!

 

鹿角地方は江戸時代までは南部藩領だった!?

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地図を見るとよく分かりますが…ここ「鹿角地方」は、青森県秋田県岩手県という三県のちょうど県境に位置しています。

 

この辺りは、出羽国でも屈指の大河・米代川の上流に位置する肥沃な盆地で、金をはじめ鉱物や山林資源も豊富。そんなエリアを、各地の有力者達が見逃すはずはありません。

 

中世までの鹿角地方は、鎌倉御家人の末裔である成田氏や安保氏など「鹿角四頭」と呼ばれた国人衆によって治められてきました。

 

やがて、東部の八戸を拠点とする南部氏が勢力を拡大。北の津軽を領していた津軽氏や秋田を拠点とする安東氏などとの争奪戦を経て、鹿角地方は南部氏の勢力圏内に入ります。

 

しかしその頃、中央では豊臣秀吉が天下統一事業を進めている真っ最中でした。

 

秀吉によって行われた小田原北条征伐と、その後に行われた奥州仕置によって、長い動乱が続いていた東北地方もようやく落ち着きを取り戻します。

 

その秀吉が下した裁定によって、鹿角地方は正式に南部氏の領土と決められました。

 

まあ元々、鹿角地方は南部本国と同じように陸奥国所属ですからね、これは自然な流れでした。

 

この後は江戸時代末までの、トータル400年ほど、鹿角地方は南部藩領だったのです。

 

ん?で…あれば?当然…明治時代以後も南部本家と同じ岩手県に所属するのが普通ですよね?

 

なぜ現在「鹿角地方」は秋田県に所属しているのか?

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本来、陸奥国に所属していたはずの「鹿角地方」ですが…明治維新後に行われた廃藩置県では鹿角地方は秋田県所属と決定されています。

 

この謎の裁定の裏には幕末に起こった東北地方の動乱が関係しているようなのです。

 

ペリー来航をきっかけとして、それまで安定していた徳川幕府による支配体制に綻びが見えるようになってきました。

 

幕末当時、東北諸藩は、薩摩長州らの主導する「明治新政府」の横暴に反感を持ち「奥羽越列藩同盟」を結成して対抗するようになります。

 

この時、同盟に参加したのは仙台藩米沢藩盛岡藩、秋田(久保田)藩、津軽藩など…東北及び越後の総勢31藩です。(※朝敵と指定された会津藩庄内藩運命共同体としながら同盟には名を連ねていません)


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奥羽越列藩同盟の本来の目的は、会津藩庄内藩の朝敵撤回と赦免でした。

 

しかし…新政府軍を率いて東北やって来た軍監・世羅修造という人物の暴言(奥羽皆敵)(白河以北一山三文)が、余計な戦乱を招きます。

 

仙台藩領の白石の地で面談した東北諸藩は、世羅の暴言にキレます。そして、世羅をその場で惨殺し、結果的に明治維新政府との全面対決へと踏み切ってしまうのです。


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当初は長岡や会津などで互角に戦っていた東北諸藩でしたが…時を経るに従って趨勢は明治新政府軍優勢に。

 

やがて、東北諸藩が劣勢になるのをみて、奥羽越列藩同盟内でも動揺が走るようになります。

 

こうなると同盟軍は弱い。やがてひとつ抜け、ふたつ抜け…と、同盟そのものも瓦解し、各藩は新政府軍の前に降伏。散々な敗北を喫することになってしまうのです。

 

この時、盛岡藩は最後まで同盟側の主力として参戦していましたが…逆にいち早く同盟から脱退し、新政府側に寝返った藩もいくつかありました。

 

その、寝返った藩のうちのひとつが津軽藩、そして秋田藩などです。

 

結局、この東北地方の戦いは新政府軍の勝利として終わります。

 

その結果、新政府軍に抵抗した東北諸藩には厳しい沙汰が下されました。

 

会津藩23万石→取り潰し→その後斗南藩3万石で再興

仙台藩62万石→28万石へ減封

盛岡藩20万石→13万石へ減封

二本松藩10.7万石→5万石へ減封

などなど…

 

しかしその一方で、いち早く新政府軍へと転じた藩には、逆に報償が与えられました。

 

・秋田(久保田)藩 賞典禄2万石

松前藩 賞典禄2万石

津軽藩 賞典禄1万石

など。賞典禄とはボーナスのようなものです。報償金と考えると分かりやすいかもしれません。

 

この時の懲罰によって、鹿角郡盛岡藩から没収されてしまいます。およそ400年にも渡った盛岡藩南部氏と鹿角地方は…ここで離れ離れとなってしまったのです。

 

明治4年明治新政府によって廃藩置県が断行されます。これは、これまで各地方で大名が支配していた土地を再編し、藩を無くして政府直轄の県を置くという政策でした。

 

この時、出羽国の北半分(羽後)には「秋田県」が立てられ、太平洋側の陸奥国の中部には幾度か編成を変えながら「岩手県」が成立します。

 

この時…陸奥国鹿角郡のみだけは、なぜか岩手県から切り離されて「秋田県」へと編入されてしまいます。

 

これ以後、鹿角郡のみは、旧陸奥国ながらも「秋田県鹿角郡」とされたまま固定されるのです。

 

ちなみに、明治新政府による東北地方の県割りは、いささか合理性を欠いた仕打ちが目立ちます。

 

・旧盛岡藩領の八戸地方→岩手県ではなく青森県

・旧仙台藩領の一ノ関地方→宮城県ではなく岩手県

・旧盛岡藩領の鹿角地方→岩手県ではなく秋田県

 

これは、南部だ!津軽だ!秋田だ!伊達だ!という旧来のしがらみに囚われることなく、わだかまりを捨てて新しい世に一新せよ…という新政府なりのメッセージだったのかもしれません。

 

しかし…長年積もり積もったわだかまりはそうそう消えるものではないようです。例えば青森県津軽弘前VS南部八戸の争いなどは、現代までも糸を引いています。

 

『鹿角』は北東北三県の文化が混じり合う場所!北東北のアルザス・ロレーヌ!?

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このように、かつては岩手県側の盛岡藩領であった「鹿角地方」ですが、現在は日本海側の秋田県へと組み込まれています。

 

これ…面白いもので、よくよくその地理や文化を眺めてみると『鹿角地方』はその絶妙な地理環境を持っていることが分かります。

 

まず、地理的には秋田県所属が妥当です。

 

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なにせ「鹿角地方」は秋田県随一の大河である米代川の上流に位置しています。実際、鹿角地方の交易は、米代川を通じて日本海側の港から物品が出入りしていたようです。お隣の大館など比内地方とは特に密接な関係を保っていました。

 

そもそも、鹿角地方は陸奥国とはいいながら、奥羽山脈の西側に位置しています。盛岡側へ出るには、貝梨峠という険しい峠を越えないと行き来することはできません。特に真冬は雪で交通も閉ざされるほどでした。

 

しかし…歴史的には岩手県所属が妥当です。

 

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元々が陸奥国であるだけでなく、実際に400年以上の長きに渡り南部氏の領域でしたので、言語や文化などは岩手県側と共通項をたくさん有しています。名物の南部せんべいもよく食べられています。

 

ですが…交通の便を考えると、最も合理的なのが青森県所属かもしれません。

 

「鹿角地方」から最も近い都市となると、津軽地方の弘前市。現代では高速道路が通っていることもあり、わずか60分ほどで行き来できるという距離です。(※秋田市までは160分、盛岡市までは80分)

 

また、鹿角地方が青森県であれば十和田湖も全体が青森県の領域に入ることにもなります。さらに鹿角地方には青森県外では数少ない「花輪ねぶた」という祭り文化も根付いています。これは、津軽との交流の深さを物語っています。


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近年、北東北の縄文遺跡が世界遺産に登録されましたが…鹿角地方にある、大湯環状列石などは、青森県三内丸山遺跡などと同じ文化圏に属すると言われています。

 

つまり、ここ『鹿角地方』は、岩手県でもあり、秋田県でもあり、青森県の文化すらも有しているということ!まさに秋田県/岩手県/青森県の三県の文化が集まるハイブリッド都市!つまり…北東北の中核ともなりうる場所なんです!

 

もしも今後日本に「道州制」が敷かれ、「北東北州」が置かれた場合…その首都をどこに置くかで大揉めに揉めることでしょう。

 

先述したように、津軽と南部は犬猿の仲。さらに秋田は日本海側に偏り過ぎるという地理的欠点があります。

 

もしも北東北の首都決めで揉めた場合…脚光を浴びるはずなのがここ『鹿角地方』です。

 

なにせ、三県全てと関係を持ち、かつ三県のほぼ中央に位置しているという『鹿角地方』は、全員が納得する行政の中心地になり得る場所でしょう。

 

これ、フランスとドイツの国境係争地であった「アルザス・ロレーヌ地方」とよく似ています。ある地理学者は「鹿角は東北のアルザス・ロレーヌ」とも論じていますが…これは見事な表現です。

 

アルザス・ロレーヌ地方

フランスドイツ間でたびたび問題となった国境係争地

現在フランス領ながら、ドイツ語を話すドイツ系の住民が多数

歴史的にはフランス領だったこともドイツ領だったこともある

鉱物資源が豊富なため、たびたび係争がおきる

 

秋田県所属でありながら、岩手県からの歴史文化も流れており、なおかつ青森県の要素も入っている『鹿角地方』。

 

特異な地理的環境と複雑な歴史を持つ『鹿角』は、もしかしたら今後、北東北三県を繋ぐ「核」になれる場所かもしれませんね。