【ブラタモリ】『武士の都・鎌倉~頼朝は武士の町・鎌倉をどう作った~』視聴レポート!
不定期土曜日連載!【ブラタモリ】視聴レポートをお届けします!今回のブラタモリは『鎌倉』です!
筆者紹介
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日本史上初めて、武士の世を作った源頼朝。
頼朝は、鎌倉を首府と定めて政治を行いました。
ところで…?昭和の頃は、鎌倉時代のスタートは1192年とされていましたが…現在の教科書には、この辺があやふやになっているってご存知でしたか?
実は鎌倉時代のスタートは諸説あり、現在は定説が定まっていないんです。
1185年
1190年
1192年
さて、源頼朝は、なぜここ「鎌倉」を首府に定めたんでしょうか?
実は、あまり知られていませんが、鎌倉のポイントである「鶴岡八幡宮」は、頼朝が建立したものではないんです。
元々「鶴岡八幡宮」は頼朝の祖先である源頼義が関東征伐の過程で鎌倉に入り、この地に、石清水八幡神をお招きして作ったものなんです。その神社を、鎌倉の町作りの基点と定めたのが、現在に残る鎌倉という町の原型です。
頼朝が作った鎌倉という町は海から坂道を昇る坂の町でした。坂の町ということは、山側から流れる川の町でもあります。
つまり、頼朝が作った鎌倉の町作りは「水を巧みに操る」ことがテーマでもあったんです。
これ、もしかしたら、頼朝が生まれ育った京都の鴨川を意識していたのかもしれませんね。
頼朝よりも少しだけ前の時代を生きた白河天皇は、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と歌を読むほど、治水に苦労していました。
京都で生まれ育った頼朝は、この苦労した鴨川の流れを意識して、はじめから水の流れをコントロールするように町作りを行ったのかもしれませんね。
頼朝が開いた「鎌倉幕府」ですが、この後の時代に作られる武士の町「城下町」とはひとつ大きく異なる特徴があります。
それは、自らの居場を町作りの中心にしなかったこと。
鎌倉の町作りの中心は、あくまでも「鶴岡八幡宮」にあります。
本来の政治の中心であるはずの「鎌倉幕府」は、鶴岡八幡宮の東隣に敷地が設けられたと考えられています。
後の世の町作りの常識を考えると、政治の中心である「鎌倉幕府」こそを中心に据えて、町作りを行ったはず。
しかし頼朝は、町作りの中心を「鶴岡八幡宮」という神社に求めました。これは、まだ、自分の政権を確固たるものと考えていなかった上皇かもしれません。
また、頼朝は「鶴岡八幡宮」の東隣に自らの居城である「鎌倉幕府」を作り、そのさらに東隣に仏教寺院である「永福寺」が作られました。
この「永福寺」は、現在は寺跡しか残されていませんが、極楽浄土をイメージした大寺院が作られていました。
番組中では京都の「平等院鳳凰堂」を真似たものと言及されていましたが、「永福寺」建立前年に遠征した、平泉の「毛越寺」もイメージしたかもしれません。
日本史上初めて作られた「鎌倉」という武士の町。
この町をデザインした源頼朝は…
という、神社、武士、仏教という3つの権威を複合して、都市を作ろうとしたのかもしれません。