NHK大河ドラマ『どうする家康』第46話コラム
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筆者紹介
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「倒したいんじゃろ…このワシを」
遂に戦国の最終決戦…『大坂の陣』がはじまりました。
この戦いは、既に絶対王者として君臨していた徳川家康による、豊臣家の殲滅戦と言われています。
大坂冬の陣の時点で、家康の年齢は72歳。当時としてはかなり高齢で、いつ寿命が尽きてもおかしくない年齢です。現在の感覚だと、95歳くらいとイメージするとちょうど良いかもしれません。
その証拠に、家康より年下である配下武将たちも次々と亡くなっており、大坂の陣の時点で、古参武将の生き残りは本多正信と渡辺守綱くらい。
豊臣家の人間から見ると「いつ家康が死ぬか?」を眈々と待ちわびているような状況。
もしも家康が死ねば…残るのは凡庸な2代目将軍・秀忠。徳川の天下も揺らぐだろうとの見方が大勢を占めていました。
家康も、それは重々承知の上です。家康自身は、自ら薬を調合するなど、健康に非常に気を遣っていた人物としても知られています。
家康は、このまま自分が死んでいくことで、起こりうるリスクも計算していたことでしょう。まさに「ワシの目が黒いうちに」どうにかせねばならぬと考えたことでしょう。
結局…タヌキと呼ばれた男にしては拙い大義名分(梵鐘への言いがかり)で、大坂の陣を始めねばならなかったのも、家康の寿命との兼ね合いを慎重に判断して…というところだったでしょう。
「信長や秀吉と同じ地獄を背負い…死んでいくのが我の役目じゃ」
信長や秀吉と同じく、家康も晩年はその評判は良くありません。それもひとえに、この大坂の陣での言いがかりによるところが大きかったでしょう。
ですが…この時の「豊臣家を滅ぼす」という家康の覚悟と判断は、結果として大成功をおさめます。
「豊臣」という火種を失ったことで、働き場を失った浪人たちの蠢動も沈静化。下克上や謀叛といった戦国の風習も落ち着き、泰平な世の中がようやく訪れることになるのです。
大坂の陣で豊臣秀頼が自害したあと…徳川幕府は200年以上にのぼる戦のない世を作りました。
それもこれも…家康が汚名を覚悟で豊臣秀頼という戦乱の火種を事前に取り除いていたおかげでしょう。
彼は、汚名も全て自らが引き受ける覚悟で「大坂の陣」へと臨んだはずです。その覚悟が、江戸時代240年の泰平を築いたとも言えるのです。
スケープゴートとされた豊臣秀頼やその子供たちにとってみれば、堪ったもんじゃありませんけどね。
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