NHK大河ドラマ『どうする家康』第44話コラム
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筆者紹介
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歴史の教科書には、「関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は江戸に幕府を開いた」とあっさり書いてありますが、実はそう簡単なものではありません。
1598年 豊臣秀吉死去
1600年 関ケ原の戦い
1615年 大坂の陣 豊臣家滅亡
関ケ原の戦いの時点では、家康はあくまでも豊臣家の大老。豊臣家中のNo.2に過ぎません。関ケ原で天下分け目の戦をしたとはいえ、豊臣家臣団の内輪揉めを納めたに過ぎないのです。
ですから、1603年に徳川家康が「征夷大将軍」に任官されるのは大事件でした。
当時はまだ豊臣家は強大。主君はあくまでも豊臣秀頼で、家康はその補佐をしている家臣団筆頭という立場でした。
しかしその彼が突如、武家の棟梁である征夷大将軍になったのです。
当時の人々は、うろたえたことでしょうね。
(え?家康さん将軍になっちゃうの?え?秀頼公差し置いて?どゆこと?)
この時点では、関ケ原を制した英雄でもありましたので、まだ理屈は通じていました。
(うん。まあ…勲功第一だしね。秀頼公は公家だし、武家の棟梁の肩書きはあっても良いのかもね。うん。家康さんも老齢だし、一代限りで秀頼公に天下はお返しになるでしょきっと。)
しかし…1605年に世を震撼させる出来事が置きます。
なんと、一代限りと思われていた征夷大将軍職を…家康は三男の秀忠へと譲ったのです。
これは…事実上の宣戦布告でした。
「天下はこのまま徳川家が世襲する。豊臣家に返しませんよ。」
こうして…二代将軍・秀忠の時代に入って行くのです。
関ケ原の戦いは、国内の戦乱を納めた武断派(加藤清正や福島正則など)と、文治派(石田三成や大谷吉継など)の内部抗争でした。
天下統一を果たした豊臣秀吉は、役目を終えた武断派の武将たちを御することができずに、その死後大混乱を招きました。
家康は、その様子をつぶさに見ています。
そこで、自らの跡取りを「武」の人である次男・秀康ではなく、「治」の人である三男・秀忠に任命したのです。
これは、これからの世を『武断政治から文治政治へ』とする宣言でもありました。
これまで、家康の覇業を支えた武のものたち
…らは、この時点で半数が生涯を終えています。
一方、秀忠に付けられたのは…
といった、政治力に長けたものたちがメインでした。
家康は自ら「武」の集団を引き取り、次代の秀忠に「治」の集団を付けました。そうすることで…かつて豊臣家中で起こったような「武VS治」の対立を防いだのです。前人たちの即席をつぶさに見てきた、家康ならではの采配といえるでしょう。
そして、江戸幕府開府から大坂の陣までの間に、戦国を駆け抜けた多くの武将たちがその生を終えています。
徳川四天王と呼ばれた人々…
徳川家臣団以外にも…
など、名だたる武将たちがこの1603~1615までの間に寿命を迎えています。
戦国時代という戦乱の時代を駆け抜けた彼ら武将たち。関ケ原の戦い以降の「戦のなくなった時代」を生きるには、少し窮屈過ぎたのかもしれませんね。
今回のラスト、家康の覇業を支えた本多忠勝と榊原康政が退場するシーンは、視聴していてぐっと来るものがありました。役目を終えた強者たち。その想いは、次代へと受け継がれていくのでしょうね。
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