NHK大河ドラマ『どうする家康』第18話コラム
こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『どうする家康』コラムをお届けします。
筆者紹介
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三方ヶ原の合戦!
浜松城を無視して西へと進んだ武田軍を追い、城を出て野外決戦に挑んだ家康率いる徳川軍。
しかし、三方ヶ原の合戦は、徳川軍の完敗に終わりました。
武田信玄は、家康が城を出て決戦に挑むように誘ったようで…家康はまんまとその策に嵌まったのでしょう。
三方ヶ原で追い付いた徳川軍の眼前に広がっていたのは、陣替えを終えて準備万端の武田軍。進軍する武田軍の尻尾を捕らえようと迫ったはずが、一気に反転した武田軍に一網打尽にされてしまいます。
総崩れになった徳川軍は、そしきだった撤退戦をすることなく、各自てんでバラバラに浜松城へと逃げ帰ります。
この時、本多平八郎の叔父である本多忠真や、兼ねてからの側近であった夏目吉信らが奮戦、間一髪のところで家康を退却させることに成功するのです。
この時、本多忠真は自ら殿軍を志願し敵の追撃を許さず、夏目吉信は家康の身代わりとして敵陣に突っ込み、壮絶な死を遂げたと言われています。
夏目吉信の死後は?
夏目吉信(劇中では広次と改名)の妻は松下之綱の娘とされています。
松下之綱は、秀吉が流浪生活をしていた時に初めて仕官した武将と言われていますので…もしかしたら当時から秀吉と面識があったかも知れませんね。まあ…当時の秀吉は下人のような立場だっでしょうけど。
夏目吉信には5人の男子がいたとされます。長男、次男はいずれも若くして死んでおり、四男の夏目吉忠は家康の関東入部後に伊豆韮山1万石を授かるほどに累進します。が、実際には任地・韮山に赴く前に病死してしまったために夏目本家は断絶。結局一族で大名になるものはいませんでした。その後、江戸時代には、旗本として夏目家は細々と存続します。
ちなみに明治の文豪・夏目漱石は、この夏目一族の系譜を継ぐものとも言われています。
しかみ像のエピソードはスルー?
三方ヶ原の合戦といえば…命からがら浜松城に戻った家康は、便を漏らすほど狼狽していたと言われています。
そして、この屈辱を忘れぬために…と直ちに絵師を呼んで自らの失態した姿を絵に残したというエピソードが有名です。今回「どうする家康」ではこのエピソードはスルーされていましたね。あの壮絶な混乱の中で絵師を呼ぶ…というのも確かに非現実的な感じもしますから、挿入するのも難しかったかもしれません。
さて、武田信玄の脅威にさらされていた徳川家康と織田信長。しかし、武田軍は突如として進軍を停止し、本国へ戻っていきました。
武田信玄の圧迫が薄れた信長と家康は、これから一気に反転攻勢へと出ることになります。そしてそれは、足利将軍・義昭との訣別を意味していました。
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