NHK大河ドラマ『どうする家康』第16話コラム
こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『どうする家康』コラムをお届けします。
筆者紹介
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遠江の名家の血筋!井伊虎松とは?
冒頭、家康の命を襲った少年兵の名は「井伊虎松」。
井伊氏は、鎌倉時代から続く武士で、遠江国西部・井伊谷を領する名門でした。隣国駿河国の今川氏の勢力が遠江に及んだ際にその配下に組み込まれ、今川義元の全盛期には今川家中でも重臣に数えられる家柄となっていたようです。
しかし…織田信長と衝突した桶狭間の合戦で風向きは大きく変わります。
当時の当主・井伊直盛は戦死。跡を次いだ井伊直親は謀反を企てたとして今川氏真に討たれています。
こうして、本来遠江の国主ともなり得た名門・井伊氏は、直盛の子である井伊直虎(おんな城主 直虎)ひとりを残して…流浪の民となるのです。
井伊虎松は、謀叛の罪を問われて討ち取られた直親の息子。井伊直虎の養子として育てられ、やがて徳川家康の元に出仕することになります。
成長した虎松は…「井伊直政」と名乗り、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政と並ぶ「徳川四天王」の一員となるほどの重臣へと出世することになります。子孫は、近江彦根城を与えられ、彦根藩35万石をりょうする、譜代大名の筆頭として、大老を出す家柄として栄えました。幕末の井伊直弼はその子孫です。
家康の異父弟!松平勝俊とは?
今回、とくがわけから武田家へと人質として送られていたのが松平勝俊です。
彼は、家康の母である於大の方が、尾張国知多の小領主・久松俊勝に再嫁した先で産んだ子供で、家康にとっては数少ない弟になります。
長子の松平康元は、江戸時代に下総関宿城主として4万石を領します。子孫はやがて美濃大垣5万石を領しますが、その後嗣子なく断絶しています。
次子の勝俊は康俊とも言われ、武田領からの脱出の際、凍傷のため両足の指を失ったと伝わっています。彼は長じて駿河国久能城を与えられましたが、わずか35歳で死去しています。
三子の定勝は、三兄弟で最も大成しました。彼は遠江掛川城主を経て伊勢桑名11万石の大名となります。やがて子孫は伊予松山城主へ転身、幕末まで続く久松系松平氏の宗家として栄えました。
ちなみに定勝には、興味深い逸話が残されています。小牧長久手の戦いのあと、羽柴秀吉より定勝を羽柴家への養子としたい旨が要求されましたが、母である於大の方が拒否したそうです。その代わりに羽柴家へ送られたのが…家康の次男・秀康!この養子拒否の一件がなければ、秀康が羽柴家に送られることもなく、また違った歴史が進んでいたかもしれませんね。
次回!三方原の決戦!
さて、いよいよ「どうする家康」中でも最大級の「どうする」がやって来ます。
武田信玄への臣従を拒否した家康は、全軍を持って戦後最強とも言われる武田軍を迎え撃つことになりました。
この戦いは、圧倒的に家康不利。しかし…家臣らに奮起を促された家康は、「桶狭間の奇跡」を信じて決戦に挑むことになります。
しかし…奮戦を促した家臣団も含めて、多くの被害を受けるに至ります。この時、家康は馬上で惨めな姿を晒したとも伝わりますが、この辺りを次回、どのように描くか?これも見物ですね。
それにしても、今回の武田信玄役・阿部寛は素晴らしいですね!あの眼差し、あの重厚感、まさに「これぞ武田信玄」と思わせる風格を見事に表現しています。
劇中で、わずかに腹部を気にしている素振りがありましたが…武田信玄の出番もあとわずか?もう少し見ていたいと思わせる演技でしたね。
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