NHK大河ドラマ『どうする家康』第15話コラム
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筆者紹介
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浅井の寝返りによって窮地に陥った織田信長と徳川家康。越前敦賀金ヶ崎での退却戦の様子は、まさかのナレ終でしたが…あの戦いの主役は秀吉でしたからね、仕方ないかもしれません。
今回のメインは浅井朝倉連合軍との総力戦、姉川の戦いでした。
後世の我々は、浅井朝倉連合軍を織田徳川連合軍が打ち負かしたことを知っています。
しかし、当時の情勢から考えれば…姉川の戦いはどちらにら転んでもおかしくないものでした。現に、浅井勢と正面衝突した織田勢は、浅井の勢いに押しまくられ、信長本陣まであと一歩のところまで追い詰められています。
今回の話で描かれたように…もしもあの時、徳川勢が信長を裏切り、浅井朝倉勢に加担していたら…その後の歴史は大きく変わっていたことでしょう。
この後、足利義昭の策略によって作られる信長包囲網。毛利、本願寺、浅井、朝倉、武田に加えて、徳川までもが敵対していたら、織田信長の命運もそこで尽きていたかもしれません。
しかしその場合、酒井忠次や石川数正が諭した通り、信長を亡きものにしたとしたら、戦国の世は史実よりも50年は長引くことになったでしょう。その場合…家康が天下を取ることもなかったはず。史実とは大きく異なる世界線となっていたのは間違いありません。
今回の話では、信長は家康の動向を余裕綽々で眺めていましたが、史実はかなりヒヤヒヤしていたことでしょうね。本当に、あそこで家康が信長を裏切るかどうかは、歴史の瀬戸際でした。
姉川の戦いの後、家康は遠江鎮定のため本拠地を曳馬へ移すことになります。曳馬は、現在の浜松。この「浜松」という地名も、家康が入城した後で名付けられたものです。ちなみに、この地名を勝手に変えるという行為も、信長の「岐阜改名」以降になってから普通に行われるようになったとも言われています。
家康が浜松へ移ったことで、元々の本拠地、三河岡崎は嫡男・徳川信康へ預けられることになりました。この時、その後見役として残されたのが平岩親吉(七之助)です。
この平岩親吉という人物は、家康の幼少期、駿府の人質時代から付き従った者のひとりです。
彼は晩年、家康の九男・義直が建てた御三家のひとつ「尾張徳川家」の創成期を担っています。家康の命により、尾張徳川家の附家老として派遣された彼は、藩政を補佐するとともに、犬山城主12万石の大名クラスの領地を治めました。それだけ、家康から信頼されていたのでしょうね。
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