NHK大河ドラマ『どうする家康』第11話コラム
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筆者紹介
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松平元信として物語が始まった『どうする家康』。彼は今川からの離反後、松平元康と名を変え独立の道を歩み始めます。さらに三河の平定後、松平家康と改名し、ようやく今回「徳川家康」となりました。
この「徳川」という姓は、家康の遠い先祖が名乗っていたものとされています。しかし、松平家の初代とされる「松平親氏」自体が、どこの馬の骨とも言えない流れ者だったらしいので…この系統もかなり怪しいものです。
何せ、当時「徳阿弥」と名乗っていたこの人物、一説には乞食坊主や賎民だったとも言われており、いつの間にか松平郷に住み着いて子を成した、と言われています。とても源氏の血統を持つ人物とは思えませんが…(笑)
ともかく、この時に源氏の血統を半ば創作し名乗ったことは、後の世に大きな意味を持つようになります。恐らく当時の家康の視界にあったのは「三河守」の叙任だけだったでしょうが。後世から見ると、この時の創作はグッジョブだったことでしょう👍️
こうして「徳川家康」となった家康は、見事「三河守」に任じられ、名実ともに三河一国の大名へと脱皮します。
その頃、家康にとって喫緊の課題だったのが、東隣の遠江国の動向です。ここは、かつての三河と同じく今川の領土となっており、弱体化する今川家の中でその屋台骨が揺らいでいる時期でした。
今回、家康と武田信玄が直に面談する場面が描かれておりましたが、これはまず間違いなく創作でしょう。彼らが面談していた信濃三河国境というと、現在でいうJR飯田線が天竜川に沿って走る辺り。信玄の本拠地である甲府からは、かなりの距離がありすぎで、わざわざ大名本人が出張るにはリスクが高すぎます。実際のところは、使者同士が談判したか、書状でのやり取りがあったに過ぎないでしょう。
ともかく、家康と信玄は密約を交わすことに成功。両家は共に同時に今川領へ攻め入り、駿河は信玄、遠江は家康が切り取るという、緩やかな合同作戦が取られました。
この時、遠江の首都とも言えるのが「引間城」でした。後の「浜松城」の旧名です。
ここ引間城は、今川配下の飯尾連竜という人物が守備していました。しかし連竜は、今川を見限り、徳川へ付く動きが見られたという理由で、今川氏真によって誅殺されていました。
そのため、この時の徳川の侵攻時には城主は不在で、飯尾連竜の妻・お田鶴が守備の指揮を取っていたと伝わっています。
最終的に家康は、このお田鶴を救うことはできませんでした。彼女は落城の際に女具足を身に付け、侍女らと共に薙刀を振るい奮戦したと言われています。江戸時代には、同時代の小松姫(本多忠勝娘)や細川ガラシャ(明智光秀娘)らと共に、女丈夫として当時有名だったようですね。
このお田鶴は、家康の正室・瀬名と親族だったのは確かなようで、もしかしたら作中で見られたような交流も実際あったかもしれません。
もしかしたら…これから家康と瀬名姫の間に吹き出すすきま風のきっかけが、彼女の死にあるかもしれません。親友であったお田鶴を失った悲しみ。そしてそれを実行したのが主人である家康。瀬名姫の心が家康から離れるきっかけが、この引間城攻略戦にあるかもしれません。
瀬名姫に待ち受ける過酷な人生と合わせて…今後の展開にも注目ですね。
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