NHK大河ドラマ『どうする家康』第8話コラム
こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『どうする家康』コラムをお届けします。
筆者紹介
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家康の前半生で最大の危機
三河一向一揆。三河で大きな勢力を誇っていた寺社勢力である本願寺・一向宗。
家康は、先代である父・広忠が発した不入の権を撤回し、一向宗の寺社へも年貢の取り立てを実行します。
しかし…その結果は惨憺たる有り様でした。
前回の記事にもまとめた通り、松平の家臣団の中にも一向宗に帰依する者が多数いました。彼らは現世での家康への忠誠心と、宗教的な信仰心の狭間でもがき苦しむものが続出します。
特に、後に家康の側近となる本多正信は一向宗軍団の参謀として大いに活躍したと言われています。家康の天下取りに、その主戦作戦参謀として活躍することになる本多正信。若い彼は、一向宗側に走り家康と敵対した過去を持っているのです。
この三河一向一揆との戦いは後に、家康に大きな教訓をもたらします。
それは、宗教との付き合い方と民衆の存在感。
武士たちは、自ら畑仕事をすることなく、農民たちから年貢を取り立て、その米を食糧として生きています。
その支配的ポジションに長く居座るものは、やがてその特権に胡座をかき、自らを特別な存在として勘違いするケースが多数あります。
しかし本来、武士たちはそんな農民や民衆たちを他の脅威から守り秩序を保つことこそが役割です。
幼い頃から、長く駿河で人質生活を送った家康。そして桶狭間の戦いのあと三河の国主として旧臣たち招かれ君臨した家康は、その特権を当たり前としすぎるところがありました。
しかし、若くしてこの「三河一向一揆」を体験したことで、家康は多くのことを学んだはずです。
武士とはなにか、民衆とはなにか。
殿様とはなにか、宗教とはなにか。
もしもこの経験がなければ…家康が天下を治めることも、その彼が開いた徳川幕府が240年も続くことすらも…なかったかもしれません。
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