NHK大河ドラマ『どうする家康』第7話コラム
こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『どうする家康』コラムをお届けします。
筆者紹介
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家康の名
ようやく後に知られる「家康」へと脱皮しましたね。
そもそも、これまで名乗っていた「元康」の名は、駿河時代に今川義元の「元」の字をもらって付けたものです。今川との断絶が決定的になった以上、この名を名乗り続ける訳にもいきません。また、同盟している織田信長からもイメージが悪かったことでしょう。
この「家康」といつ名前の由来は諸説あります。劇中では「八幡太郎義家」の「家」とも触れられていましたが、実際のところはどうなんでしょうかね。三河を家とする…っていうのは、キャラクター付けとしては面白いところですが、実際には根拠が弱い気がしますね。
ともあれ、ようやく第7話にして「どうする元康」から『どうする家康』に変わったとも言えますね。
一向宗の台頭
三河は、戦国時代当時、全国でも屈指の一向宗の拠点となった場所でした。一向宗とは、現在の浄土真宗…いわゆる本願寺教団です。やがて、織田信長と大坂石山などで全面戦争を行う集団ですね。
三河では、先代である松平広忠によって「不入の権」を認められていました。簡単に言うと「治外法権」「自治権」に近いもので、寺域内には領主は介入しないし、年貢も徴収しないという約束です。
この時期の家康は、三河の大名として一国を制圧していた…と思われていますが、さにあらず。あくまでも、岡崎城を中心としたエリアは勢力圏に入れていましたが、三河一国全体にまでは統治は及んでいません。
西の酒井忠尚や、南の吉良義昭などは、家康とは敵対していましたし、同じ一族の松平家次なども、反旗を翻していました。
つまり、この時期の家康はじり貧。尽きかけた軍費を補うために、それまで免除していた一向宗にも年貢の取り立てを行ったのです。
これが…家康を非常に苦しめることになります。
松平家臣の中にも一向宗に味方した者も!
かねての約束を破り、一向宗から無理矢理年貢の取り立てを行った家康に対し、一向宗は各地に激を飛ばし、全面戦争へと突入します。これがいわゆる「三河一向一揆」です。
この時、家康家臣の中にも一向宗の門徒となっていたものが多くいました。彼らのうち、多くは家康の元へ馳せ参じましたが…この時、家康側ではなく一向宗側に味方した家臣も少なからず出ました。
・夏目吉信(のち三方ヶ原の戦いで戦死)
といった名の知れた人物たちや、
・本多正重(本多正信の弟)
という重要人物ですらも一向宗側に付いて家康に弓を引いたと言われています。
今回は、まだ本多正信の出奔まで描かれていませんが…次回彼がどのような行動を起こすのか?要注目ですね!
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