NHK大河ドラマ『どうする家康』第4話コラム
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筆者紹介
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今川?…織田か?家康2年間の逡巡
遂に家康の一大転機、織田信長との清須での会談へと向かいました。
家康と信長は、その後長く固く手を取り合い、信長が本能寺で死ぬまで同盟を結び続けました。一時、信長の命令である人物を殺すことになるのですが…これはまた後のお話。
ともかく、桶狭間の戦いで今川義元が死んでからすぐ家康と信長の同盟が結ばれた…と錯覚されがちですが、実はそうとも言えません。
桶狭間の戦いが起きたのが1560年。そして、清須同盟が結ばれたのが1562年。この2年間こそ、当時の松平元康(後の徳川家康)が今後どう生きるのかを決めるターニングポイントであったのです。
大物当主であった今川義元が討たれたとは言っても、領土は一片も切り取られておらず、駿河、遠江、三河と今川の力はほぼ温存されたままです。
一方の織田信長は、今川から伸びた侵略の手を振り払い、義元を討ち取りさえしましたが、領土を広げた訳でもなく、あくまで尾張一国の領主に過ぎません。
その両者に挟まれた松平元康は、ここで判断を迫られます。
本来であれば駿府の今川本家の元へ戻り、指示を仰ぐのが筋ですが…そこは既に帰還命令を無視し、本領三河の岡崎城へ入ってしまいました。
今まで通りに今川の属国として三河国を差し出すか?はたまた、織田と同盟を結ぶか?
1560年~1562年の間の2年間は、家康にとってもその人生の行く末を決める岐路に立たされていたのです。
結局、家康は2年間の逡巡の末、織田方に付くことを選択します。これは、母・於大の方の実家、水野氏が織田方に付いていたことから、口利きをしたとも言われています。
織田との清州同盟
こうして、織田方へと旗幟を鮮明にした家康でしたが…駿府の今川の元には妻である瀬名と長男長女の2子が残されていました。今川にとっては、大切な人質。妻子を殺さずに生かしておいたのは、いずれ再び、家康を今川方に寝返らせる算段があったのではないでしょうか。殺してしまっては、その憎悪は今川に向きますし、決定的な訣別の引き金にもなってしまいます。
家康は…この妻子を奪還するために、実に政治的な戦略を取ることになります。
なお、織田との清須同盟で、今作では面白い描かれ方をしていましたね。それが、家康の元へ信長の妹・お市の方を輿入れするというもの。
お市の方の正確な生年は伝わっていませんが、一説には1547年生まれとされていますので、清須同盟が結ばれた1562年には15歳。当時の結婚適齢期でした。
我々は、後にお市の方が、近江の大名・浅井長政の元へ嫁ぐことを知っています。そのために思いもよりませんでしたが…確かに考えてみれば、同盟の証として、家康にお市の方を嫁がせるという手もあり得る戦略もあり得たのです。
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