【伊達政宗は仙台生まれ?】
宮城県仙台市。ここは東北を代表する大都市ですよね。現在は人口100万人を超える、日本有数の都市でもあります。あなたは「仙台」と言われると、何を連想しますか?
牛タン!笹かま!ずんだ餅!萩の月!…などなど、ご当地グルメを思い浮かべる方も多いでしょう。また最近は、プロ野球「東北楽天ゴールデンイーグルス」を思い浮かべる人も多いかもしれません。
それでは「仙台を代表する人物」と言われて連想するのは誰でしょうか?
恐らく大多数の人が、仙台藩を作り上げた「伊達政宗」の名前を挙げるのではないでしょうか。
仙台藩の居城であった仙台城(青葉城)跡地に建つ「伊達政宗の騎馬像」は仙台のシンボルにもなっていますよね。お土産屋さんにも、伊達政宗関連のお土産がずらーっと並んでいます。
そんな、仙台および宮城県の象徴ともいえる「伊達政宗」ですが、当然、政宗自身の生まれも育ちも仙台!生粋の仙台っ子!
…だと思うじゃないですか?
いやしかし。伊達政宗って…元々は仙台とは縁の無かった人物だったって…ご存知でした?
伊達政宗の経歴 前半生
- 1584年 伊達家の当主となる
お分かりですか?この時点で、伊達政宗と仙台との繋がりはほとんどありません。
元々は福島県伊達市を支配していた領主の血筋ですから…その感覚で言えば彼は「福島県人」です。
また意外と知られていませんが、政宗自身は、父祖が戦争で奪った山形県米沢市で産まれています。産まれた土地から考えれば「山形県人」とも言えそうです。現在でも、米沢城跡である上杉神社の一画には「伊達政宗出生の地」との石碑が建てられています。
伊達政宗は、時の天下人・豊臣秀吉より31才年下、徳川家康より27才年下です。東北地方では最大の勢力になりつつあった政宗ですが、当時中央で覇権を握りつつあった彼らには歯が立たず…やがて彼らの軍門に下ります。
伊達政宗の経歴 後半生
- 1636年 江戸藩邸にて死去
野心家の政宗は、秀吉の軍門に下った後も、常に旧領回復の野望を失いませんでした。
会津領を没収された直後には、葛西大崎一揆を扇動し、会津の新領主・蒲生氏郷や木村吉清らを苦しめます。この時氏郷が、政宗による扇動を秀吉に訴えたことで、先祖代々の領地伊達郡をはじめとする福島県内の領地の大部分を没収の憂き目にあっています。
これ、政宗には痛恨の沙汰でした。先祖代々、根拠地としていた伊達郡周辺を失ったことで…政宗の野望は「旧領土奪還」が至上命題になります。
関ヶ原の戦いの際にも、どさくさに紛れて旧領である伊達郡他の奪還を目指して上杉領を攻めたり、北部の南部家の領地でまた一揆を扇動したりと謀略の限りを尽くします。
戦後、一揆の扇動を南部家からの訴えられたこともあり、新しい天下人になった徳川家康は、口約束していた伊達郡他の領地復帰を撤回してしまいます。
こうして…政宗がかねてから夢見ていた"先祖代々の土地"伊達郡はじめとする現福島県内の領土回復は、ここで完全に潰えるのです。
このように見ていくと、政宗が伊達郡をはじめとする旧領地回復に強い拘りを見せていたことが分かるでしょう。
もしも関ヶ原の戦いのあと、旧領回復を実現していたら…政宗は、福島県内の旧領地に居城を移し、仙台城は築城しなかったかもしれません。
現在でこそ仙台=伊達政宗のイメージが強い両者ですが、今見てきた通り、政宗と仙台の繋がりは最晩年の期間に過ぎません。(と言っても30年以上ですが)
結局、「葛西大崎一揆」や「和賀稗貫一揆」の扇動など、謀略家・政宗が焚き付けた策略はことごとく上手くいかず…悲願の旧領回復は成りませんでした。
政宗が仙台に居城を築き、現在の100万都市仙台の礎を作ったのは、政宗自身の謀略…過激な火遊びの結果やむ無くとも言えるのです!彼の強すぎる野心が、先祖代々の旧領地から遠ざけたというのも歴史の皮肉ですね。
もちろん、伊達政宗が仙台の繁栄の礎を築いた偉人であることに変わりはありません!
政宗は今も仙台市民から愛され、その誇りとなっています。彼は今日もまた、仙台城の石垣の上から、仙台の町と人を見守っています。