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三内丸山遺跡と吉野ヶ里遺跡の違いから見る日本人のアイデンティティ

こんにちは!旅人サイファです。

先日、三内丸山遺跡をはじめとする『北海道・北東北の縄文遺跡群』が世界遺産に登録勧告されましたね!

 

日本国内に大規模遺跡は数あれど…青森県三内丸山遺跡佐賀県吉野ヶ里遺跡は東西のBIG2ともいえる特筆すべき遺跡です。一見似たような遺跡のように思われますが…実は大きな違いがあるんです!

今回は、三内丸山遺跡吉野ヶ里遺跡の違いから、古代人から脈々と続く『日本人のアイデンティティを探ってみたいと思います!

 

三内丸山遺跡は、縄文時代を代表する遺跡です。

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一方、弥生時代を代表する遺跡が九州にある吉野ヶ里遺跡です。
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三内丸山遺跡はおよそ5000~4000年前の遺跡。

吉野ヶ里遺跡はおよそ2500~1800年前の遺跡と年代に違いもあります。

 

しかし、最大の違いは以下の二つ。

この二点…実は密接に関係しているのです。

 

三内丸山遺跡を残した縄文人は、食糧の大部分がを狩猟採集漁労に頼っていました。

一方で、吉野ヶ里遺跡弥生人の遺跡。その大きな違いは、水田稲作という『農耕』を習得していたことです。

 

以前、『米を作らねば人にあらず』という記事でも述べた通り、農耕は人間の生活を劇的に変えました。

 

自然の動植物に頼っている狩猟民族(縄文人)は、身の回りの食糧が枯渇すれば自らが移動し、食糧源を確保しなければなりません。そしてそれに加えて、狩猟で獲た食糧は…あまり保存が効かないという欠点があります。

 

三内丸山遺跡は、縄文時代の遺跡ながら、大規模かつ定住していると言う点に特色があります。

三内丸山遺跡の最盛期は縄文中期。この頃になると、栗の木を植えたり、ヒョウタンやマメの栽培したりと、小規模ながら、狩猟採集に頼らずに食糧確保ができるようになっていたようです。

また、遺跡内から北海道の黒曜石や新潟県翡翠などが出土していることから、組織的な交易が行われていたことも示唆されます。ですが、これらはほぼ全て『動産』。いざとなれば持って移動することも可能でした。

 

一方、農耕を覚えた弥生人は、田んぼを必要とするために、農耕に適した一定の土地を開墾し定住するようになります。

やがて日本全土を征服しヤマト朝廷を開く弥生人は、『農耕』を手入れれたことで、この魔性の技術に縛られることになるのです。

 

水田稲作を行うには、組織だった開墾が必要です。そのために、リーダーの指揮する社会が生まれます。

そして、村人全員で協力して土地を耕し畦を作り水を引き、田を整備します。こうして得られた『米』は、人々を飢餓から救っただけでなく、さらに長期間保存も効くというまさに魔法の食糧でした。

『米』とそれを作るための『土地』。このセットは、やがて日本人のアイデンティティとなります。

そして最も重要な要素が、『開墾した土地は動かすことができない』=『不動産』であること。そのため、自分たちが開墾した土地に執着することになるのです。

 

こうして農耕を覚えた人々は『守り』の意識を強く持つようになります。『米』を産み出す『土地』を守るために、ムラができクニができ、よそ者からこれらを守るための設備が整備されます。

これが、吉野ヶ里遺跡に見られるような、深さ3mにものぼる巨大な環濠を発生させることになるのです。

 

このように、農耕民族が『守備的なアイデンティティ』を持つようになるのは必然と言えましょう。米を産み出す土地を守り蓄えた食糧を守る。そのために外敵の侵入を阻む防御設備を作る。

このアイデンティティは、やがて日本全土に広がります。稲作を進めるヤマト朝廷によって東日本や東北地方に残っていた縄文人たちは生活の場所を追われ、一部は稲作を受け入れてヤマト化します。

 

農耕民族であるがゆえの『守備的アイデンティティ』。

これは、朝廷による土地支配を経て、武士たちによる一所懸命の思想へと綿々と繋がってくのです。

 

現代日本人も、攻めの革新政党よりも、守りの保守政党の方が支持されやすいのは…もしかしたらこのアイデンティティのせいなのかもしれませんね。