こんにちは!旅人サイファです!
今回は前回に引き続き福島県のお話です。
県内でも人口3番手の福島市が、なぜ福島県の県庁所在地に定められたのか?
陸奥国は現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県まで引っくるめた超大国!と、言うよりも、国境を定めた奈良時代の役人も、未開の東北地方を詳しく知らなかったがために『白河以北は全て陸奥』!と、ざっくり線を引いてしまったのが真相のようです。ヤマト朝廷に従わない異民族・蝦夷が支配する土地を引っくるめて『陸奥国』としたのでしょうか。
江戸時代、福島県エリアには、会津藩23万石は別格として、二本松藩、中村藩、福島藩など10万石前後の小藩が十数藩存在していました。
幕末動乱期には、薩摩長州を中心とした新政府勢力に対し、東北諸藩は仙台藩会津藩を筆頭にした『奥羽越列藩同盟』を組織して、幕府側に立って対抗します。
…しかし衆寡敵せず。東北諸藩は朝敵とされ、新政府軍の近代兵器の前に次々と屈していきます。
その中でも特に会津藩は、幕末当時の京都治安維持職を担っていました。その任務のために長州などの尊皇攘夷派志士を数多く捕縛していたがために、新政府側から目の敵のように敵視され…会津戦争では完膚なきまで叩きのめされてしまいます。
斎は下り明治時代初期。廃藩置県の紆余曲折を経て、現在の福島県エリアには、浜通りの『磐前県』、中通りの『福島県』、会津の『若松県』の3県が作られました。
しかしこの二本松藩も、会津藩同様に新政府軍に執拗に抵抗した歴史を持つ街ででした。そのため、中通り最大の城下町ながら県庁所在地とされなかった…とも言われています。そして二本松の代わりに、新政府軍にあっさり城を明け渡した福島藩の城地に県庁が置かれたとも言われています。
やがて第3次廃藩置県で『磐前県』『福島県』『若松県』の3県が合併されることになります。こうして出来ることになったのが現在と同じ『(新)福島県』。
本来の都市の規模では、この3県内の最大都市は会津地方の若松。3県合併の話が持ち上がった際に、誰しもが若松に新県の県庁が置かれると考えていました。
しかし、蓋を開けてみれば、磐前県、若松県は福島県に吸収され消滅。そして県庁も福島に置かれてしまいます。明治政府の言い分としては、『3県の中央である中通りに県庁を置いただけ』…のようですが納得がいかない住民も多かったようです。
中には、『新政府軍に抵抗した会津や二本松にへの当て付け』と取る人々もいたようです。特に会津は明治新政府にとって数多の同志の命を奪った朝敵の町。そんな町を決して繁栄させてはならないという強い怨恨が…新生福島県の県庁を若松ではなく、福島に置く隠れた理由となったとも言われています。
浜通り=いわき平を中心とした『磐前県』
この2つは、こうして福島県に吸収される形で消滅してしまうのです。
① 旧福島県の県庁は、明治新政府が二本松に県庁を置きたくなかったがために福島に
② 新福島県が成立した時も、会津若松に県庁を置きたくなかったがために、3県の中央に位置していた福島が選ばれた
他にも、明治日本の主要輸出品である養蚕(生糸)が盛んだったから、とか、東北の都・仙台市へのアクセスが良かったから、なども理由として挙げられていますが…都市の規模を無視してまで福島を推すには弱いですよね。
しかし…県内では当時から『なぜあんな辺鄙なところに県庁が?』という疑問は燻っていたようです。こんな思いが、明治19年、国も巻き込む福島騒動勃発の伏線になっています…。
この時の主役は福島県の中央に位置する郡山。…この話はまた別の機会に。
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