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【麒麟がくる その後②】 南光坊天海の正体は

こんにちは!旅人サイファです!

最終回を終えたNHK大河ドラマ麒麟がくる』ですが、まだまだ余韻が残ってますね!

今回は、前回に引き続いて『麒麟がくる』の後日談と奇説を少々…。
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信長→光秀→秀吉→家康と渡された『麒麟のバトン』。

ようやく徳川家康によって平和な世の中が作られました。

その家康には、多方面からスペシャリストが集められた、顧問団ともいえるべき組織がありました。

例えば、家康の側近として辣腕をふるった「本多正純」、外国人顧問として外交アドバイスをしたとされる「ウィリアム・アダムス」や「ヤン・ヨーステン」、京都の公家政策を担当した「板倉勝重」、法整備や外交、寺社政策を担当した「金地院崇伝」、さらに儒学者林羅山」、商人の「茶屋四郎次郎」などなど…。

その中のひとりが「南光坊天海」です。

今の東京の繁栄の基礎となる、江戸の街作りを行ったのがまさにこの人物。

また家康の死後、日光に荘厳な廟所(日光東照宮)を建て埋葬したのも、この南光坊天海の献策です。

現在も宗教都市日光の中興の祖として日光山の入口にはこの天海の像が建てられています。

さて…この天海。実は家康の側近となるまでの前半生が不明です。

足利将軍の落胤であるとか、会津葦名氏の出身だとか様々な説が唱えられていますが、はっきりしていません。

その中一説に『天海の正体は生き延び姿を変えた明智光秀である』という奇説があるのです!

その根拠を列挙すると… 

  • 天海の墓所が光秀の居城があった近江坂本にあること
  • 3代将軍になる徳川家光の乳母に光秀の重臣斎藤利三の娘ふく(後の春日局)が任命されていること
  • 家康を祀る日光の山中の一画を「明智平」と名付けたこと
  • 日光東照宮明智の紋章「桔梗紋」が多様されていること
  • 光秀と天海の筆跡鑑定を行ったところ「非常に似通っている」という結論が出されたこと
  • 家康と天海が初めて顔を合わせた際、4時間も話し込んだと伝わるエピソードが残っていること

特に春日局の件は、引っ掛かるところがありますね。

春日局の父、斎藤利三は反逆者として処刑打ち首になっています。

普通に考えて、その娘を将軍お世継ぎ様の乳母に…とは考えないでしょう。

もしも明智光秀が生き延び、天海として徳川家康の治世に貢献していたら…胸熱展開ですよね。

最終回、菊丸に託した徳川家康宛の密書には、一体何が書かれていたのでしょうか!

家康を陰ながら支え、戦の無い平和な世界を作った南光坊天海。

もしもその正体が明智光秀であったならば…山崎の戦いで破れた後も、太平の世を作るために活動を続けていたことになります。

麒麟がくる』では、山崎の戦いでの敗戦後は描かれませんでした。もしラストシーンで馬を駆けていたのが生き残った光秀であったならば…歴史の表舞台から姿を消し、水面下で天下人を支えたのかもしれません。

 

家康に託した『麒麟のバトン』

その天下平定の総仕上げ時期に颯爽と現れた南光坊天海。

麒麟が訪れた後の世の中を…彼はどのように見ていたのでしょうか。天海はなんと徳川家光の時代まで生き、1643年108歳という当時としても考えられない長寿を全うしています。


そういえば…徳川家康の跡を継いだ2代3代将軍の名前に注目すると…

2代将軍 秀忠

3代将軍 家光

「秀」と「光」…


「光秀」の名が隠されているんです…!

信じるか信じないかは…あなた次第っ!

 

(※家光の名付けは同じ家康ブレーンの崇伝と言われていますが)

 

(つづく)

次回です!


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麒麟がくる解説!