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【麒麟がくる その後①】 本能寺後の情勢

みなさんこんにちは!旅人サイファです!

ついに昨日NHK大河ドラマ麒麟がくる』が最終回!フィナーレを迎えましたね。

私個人としても、天地人真田丸以来の1年間完走でした。

最終回、どのような本能寺を描くか注目していましたが…やはりというか、『世を平らかにするために涙を飲んで』という描き方でした。

その思いを受け止め死んでいく織田信長の描き方も素晴らしかった!

さて、明智光秀と周辺の後日談を少々。
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定説では、本能寺の変の後、明智光秀安土城に入り天下に号令をかけたと言います。

しかし、盟友であったはずの細川藤孝筒井順慶をはじめ、誰一人として駆けつけませんでした。

信長の横暴に眉をひそめていたとはいえ、『主殺し』『裏切り』への荷担にはみな二の足を踏んだのでしょう。

本能寺の変からおよそ10日後…備中(現在の岡山県)から驚くべきスピードで引き替えしてきたのが羽柴秀吉

それを迎え撃つべく、光秀は京都の入口・山崎にて大合戦を挑みます。

しかし、衆寡敵せず。山崎の戦いで破れた光秀は、本城である近江坂本城へ退却する途中、落武者狩りの土民の襲撃を受け、山科小栗栖にて絶命したと伝わります。

光秀を打ち破ったことで、敵討ちの立役者という名実を得た秀吉は、織田家中の勢力争いをまとめ信長の後継者の地位を固めます。

そして中国地方の毛利、東海地方の徳川、四国の長宗我部、九州の島津、関東の北条、東北地方の伊達…と地方の大名たちを次々に屈服させついに天下統一を果たします。

天下をまとめ、関白となった豊臣秀吉でしたが…その治世は長続きせず、やがて幼い子を残して死去してしまいます。

秀吉の死後、豊臣秀吉の家臣団が分裂する様を見て、ついに徳川家康が立ち上がります。

これまで、織田信長豊臣秀吉と常に頭を押さえられていた家康。

石田三成率いる文治派と福島正則らを中心とした武断派の勢力争い(関ヶ原の戦い)を巧みに利用して、天下の第一人者となり、1603年江戸に幕府を開きます。

さらに幕府を開いて12年後には、大坂の陣で秀吉の遺児、秀頼を死に追いやることもしています。

非情な処断でしたが…争いの火種は消しておかねばいつまで争いは続く。

こうして、大坂の陣を最後に大規模な武士同士の戦争はなくなり…ようやく安寧な世の中となるのです。

光秀が思い描いた…争いの無い平らかな世の中が、ようやく家康の手によって作られたのです。

光秀が本能寺で信長を討ったのが1582年。大坂の陣が終わるのが1615年。

本物の『麒麟』がくるまでには…本能寺から33年もの月日が必要だったのです。

家康が作った江戸幕府は、屈強な武士ではなく、政治力のある武将らが政治を取る形になっていました。

そのせいか、およそ400年もの長き間大きな戦争を起こさない、世界でもまれに見る平和な世の中を作り出すことができたのです。

その中の1人。家康のブレーンとして活躍した僧侶がいます。

その名は『南光坊天海』。今に残る世界遺産日光東照宮』を造営した人物です。

(つづく)

次回です!


麒麟がくる解説!